プロフィール


菊川美代子

2012年3月に同志社大学大学院博士課程単位取得退学、2012年5月にオーストラリアへワーホリビザで渡航。
オーストラリアで2年間のワーホリ、NZで1年のワーホリを経て、現在はパートナービザ(Work Visa Based on Partnership)にてNZに滞在しています。
オーストラリアで出会ったアイリッシュのパートナーと永住権目指して奮闘中。
私のオーストラリアワーホリ体験談はこちら

→詳しいプロフィール

ご連絡はmiyoko.kikukawa★gmail.comまでどうぞ。(★を@に変えてください)

海外避難生活の裏側

 

財布に2ドル入っていれば余裕を感じ、
9年間大切に履き続けてきた靴を一ヶ月で履き潰した・・・

オーストラリアにワーキングホリデーで渡ってから二ヶ月、
私はシドニーで赤貧の日々を送っていました。

【衣食住に困らなかった日本での日々】


日本での私は実家で暮らしていた大学院生で、
衣食住には困らない生活を送っていました。

大学院生だったためバイト代は全て自分のお小遣いとして
研究のための文献の購入や学会費の支払い、
また外食やお茶代、洋服などに充てていました。

その当時の自分にとっては「お金がない」というのは
それらのお金がないというだけであって、
衣食住に困るという意味ではありませんでした。

両親の持ち家に住まわせてもらい
毎日母親が三食を作ってくれて、
洋服はたくさんは買えませんでしたが
外出の時に着ていく服がないということはありませんでした。

 

生活費を自分で出したことがなかった私は、
29歳にしてお金の使い方を良く知りませんでした。

世の荒波に揉まれたことのない、世間知らずでした。

【元箱入り娘が過ごした赤貧の日々】


オーストラリアでは住宅費が高いので
他人とアパートの部屋や一軒家をシェアして暮らすのが
普通です。

オーストラリアに到着してから
私もすぐにシェアで暮らし始めたのですが、
そのシェアは何と門限がありました。

60代の研究者の女性だったシェアのオーナーからの、
夜は早くに寝たいので22時までに帰ってきて欲しい、
という理由で。

この門限は見学の時に説明を受けていたのですが、
英語力が低かった自分は分かったふりをしてしまい、
入居してから気づいたという体たらくでした。

それでも、実家でも門限が23時だったので
「何とかなるだろう」と楽観的に考えていましたが、
これが赤貧の日々の幕開けでした。

【バイトが見つからず苦戦】

23時が門限だった実家住まいだった時も
問題なくバイトは見つけられていたので
22時でも何とかなるだろうとたかをくくっていました。

 

しかしいざ仕事を探し始めると、
語学学校にフルタイムで通うので昼間は働けない、
手に職もなく英語もできない、
同一の雇用主の元で半年しか働けないビザの自分は
日本人経営の日本食レストランでしか
働き口がない
ことが分かりました。

そしてレストランだと22時や23時に閉店するので
門限が22時だと雇ってもらえないか、
雇ってもらえてもあまりシフトに入れてもらえませんでした。

さらに悪いことに、
日本食レストランは法定最低賃金を払わず
当時のNSW州の法定最低時給15ドルに遥か満たない
10ドルの時給しか払わない所ばかりです。

「英語もろくにできない短期ビザ保持者を
雇ってやるのだから」と。

私が働いた数件の日本食レストランも例外ではなく、
説明もなしに「研修期間は時給8ドル」と言われ
一ヶ月ほど8ドルの時給で働きました。

どんなに安くても、働かないよりは少しでも収入があるので・・・。

時給8ドルや10ドルで、しかもあまりシフトに入れてもらえず、
手持ちのお金がどんどん減っていきました。

オーストラリアに到着してから一ヶ月ほどで貯金が底をつき、
私のエージェントをしていただいていた田村さん
借用書を書いて700ドルを借りるということもしました。

 

この頃は財布に2ドル入っていたら余裕を感じるほどで、
スーパーで買い物をする際には
セント単位でお金を計算しながら買い物をしていました。

日本では実家住まいなことに甘えて料理もしたことがなかったので
作れる料理のレパートリーも貧しく、
またどの食材をどう調理していいか分からず、
最初の二ヶ月はお肉を一切食べずに
玉ねぎと人参とパプリカと白米ばかり食べていて
7キロも太ってしまいました(笑)

こちらでは仕事を探す時には自分から働きたい場所に
履歴書を配って回るのが普通なので
「日本食レストラン以外の仕事を見つけよう!」と
頑張って週末の度に履歴書を配っていましたが
一か月の間に80枚は配ったのに面接にすら呼ばれませんでした

そうこうしているうちについに借金までしたお金も尽き、
家賃150ドルの支払いができなくなり、
残りの有り金87ドルのうち63ドルをオーナーに渡し、
「150ドル÷7日で一日約21ドル、
すみませんがお金がないのであと3日でここを出ます」と告げ
23ドルを持ってそのシェアを出ました。

【29歳にして門限がない自由を初体験】

 

引っ越し先はRozelleというサバーブにある
Balmain Backpackersというバックパッカーでした。

その当時、そこは初めての宿泊の人に
10日間まで一泊10ドルという破格のキャンペーン中だったからです。

しかもシェアと違い商業施設なので
日本から持ってきたクレジットカードで宿泊費の支払いができるため
「これで門限がなくなるのでたくさん働ける。
カードの支払期限までにお金を稼いで
日本の自分の口座に国際送金すればいい」と考えていました。

しかし、今まで閉店作業をしたことがなかったバイトを
いきなり閉店時間までシフトを入れてくれるかというと
当然そんなことはなく、結局シフトはそんなに増えず
カードの支払期限が迫ってきました。

結局親に頭を下げて日本の自分の口座に
お金を送金してもらい、
レントの支払いや食料品、日用品の購入をカードで行い、
自分が稼いだドルは手元に置いておくことにしました。

「もう日本には一生帰らない」と啖呵を切って出たのに、
わずか二ヵ月後には親にお金の送金を頼むとは・・・と
恥ずかしく情けない気持ちでいっぱいになりました。

【救世主の登場】

学校が終わってからバッパーに引っ越して初日の夕方、
駐車場の近くにあるソファーに座ってボーっとしていると
異様に感じのいいアイルランド人男性が話しかけてきました。

結果から言うと彼が私の現在の配偶者(事実婚)で、
事情を知った彼が材料費も彼持ちで夕飯を毎晩作ってくれ、
お金がなくて遊びに出かけたことがないという自分を
全て奢りで遊びに連れ出してくれたりしてもらう内に仲良くなり、
初めて会った日から二週間で付き合うことになりました。

買い食いも、カフェやレストランでの飲食も
赤貧状態でこの二ヶ月間したことがなかった私には
救世主のような存在でした(笑)

日本食レストランでの仕事しかできないと、
違法低賃金なので貯金をするのがかなり難しいです。

普通なら飲食業で働くと賄いで食費が浮きますが、
日本食レストランでは
出される賄いに東日本製の食材や調味料が使われており
私は賄いを食べられなかったので
賄いによる食費の節約が出来ないという要素もありました。

また、賄いを食べられないと
他の従業員から奇異の目で見られたりして
馴染むことができないという辛さもありました。

【熱帯地方で「細腕繁盛記」】

 

彼と出会ってから二か月ほど経った2011年の10月、
一年目のワーキングホリデービザが2012年3月で切れる彼が
二年目のビザを取るために季節労働へと旅立ちました。

オーストラリアのワーキングホリデービザは
政府が指定する田舎の地域で農場での労働などの
季節労働に13週間または88日間従事すると
もう一年延長することができるからです。

彼は友達のツテを辿り
クイーンズランド州北部の熱帯地方にある
Innisfailというバナナ農場がたくさんある町に行き、
私も彼が旅立った一か月ほど後に同じ町に行きました。

Innisfailでは彼と私は
ワーキングホステルに滞在していました。

ワーキングホステルとはバックパッカーなのですが、
チェックインの際に「仕事を斡旋してほしい」と伝えると
順番待ちのリストに入れてもらえて、
順番が早い人から仕事に空きが出た時に仕事がもらえます。

その町には複数のバナナファームがあり、
それらのファームから求人が出ると
ワーキングホステルに連絡が行き、
ホステルがそこに宿泊している人を斡旋していました。

その町は私達が滞在する二年前に
ハリケーンにより損害を受けていて、
それ以来不作が続いていました。

不作であるということは仕事が少ないということで、
私が到着した時点で彼は一か月間順番を待っていました。

 

また、その町のバックパッカーの宿泊費はどこも異常に高く、
一か月間働けずにいた彼の貯金はすぐに底をついていました。

私が到着した翌日に彼は仕事をもらえたのですが、
私もやはり一か月仕事がない状態でした。

待機期間も宿泊費、食費、雑費がかかるので、
仕事をもらうまでに時間がかかりそうなら
本当はさっさと違う町に移動した方が良いです。

しかし、彼と将来事実婚をしようと約束していた私には
別居の選択肢がなかったので
同じ所に滞在することにしました。

ようやく仕事をもらえた彼と私でしたが、
彼が派遣されていたバナナ農場は仕事が少なく、
週5日働けることは稀でした。

私が派遣されていたバナナ農場は仕事が比較的あり、
基本的に毎週5日間働けていました。

 

上述の通り、その町のバックパッカー宿泊費は高額だったので
彼は宿泊費しか払えないような状態で
私がその他の食費や雑費を二人分出す日々が始まりました。

時には、彼が宿泊費すらも払えないような週もありました。

彼をそうして少し養う傍らコツコツと貯金をし、
田村さんからの借金も少しずつ返していき完済しました。

この町に滞在している間、
国の福祉が充実しているので貯金をする習慣がない国出身の彼とは
金銭感覚の違いで何度も激しい喧嘩をしました。

彼が日本語を一切話せないので
私はずっと英語を話さなければならず、
感情的になった時には特に英語がつっかえる自分に対して
私が話し終わるのを待たずに
母語で自分の主張をスラスラと言う彼に追い詰められ、
気が狂いそうになり泣き叫びながら日本語で怒鳴り返して
過呼吸になったことも一度ありました。

そんな様子の私を始めて見た彼は慌てふためき
震える私の口にビニール袋当てて介抱してくれましたが、
私は内心妙に冷静で
「体の調子が少し悪いからと病院に行って
『余命一か月です』といきなり宣告されたら多分こんな感じ」
と頭のどこかで面白がっていました(笑)

そうこうしているうちに13週間の終わりが見え始め、
私の仕事も週4、3とだんだん減ってきていたので
ちょうど13週間でバナナ農場の仕事を辞めることにしました。

その後は彼がすぐに仕事を得られるツテがあった
シドニーに戻りました。

【再びシドニーで赤貧の日々】

 

彼は彼の幼馴染が指揮を執っている
電気会社のセールスの仕事を得て、すぐに働き始めました。

私は履歴書を毎日配り歩くも、
音沙汰がない日々が続いていました。

そのセールスの仕事は基本給がなく出来高制で、
セールスの仕事が苦手な彼には
とても低いお給料しか支払われませんでした。

それでも彼は仕事が見つからない私を養うために
毎日頑張って仕事に行ってくれていたのですが、
ある日「仕事に行けない…」と言って
動けなくなってしまいました。

頭では仕事に行かないと、と思っているのに
体が言うことを聞かない状態でした。

私はといえば日本食レストランではもう働きたくないという
我儘を通し彼に養っていてもらっていたので、
その時の二人合わせての貯金が450ドルほどでした。

結局、出社拒否になってから三日目に
以前働いていた会社から仕事のオファーがあり
無事にセールスの仕事を収入の心配がなく辞められました。

私はシドニーに戻ってきてから履歴書を再び配っていたものの
前回のシドニー滞在分と合わせて200件以上配っても
やはり何の音沙汰もなく毎日落胆していました

そして鬱々と過ごしていたある日、
「今の状況から自分は何か学ぶことがあるから
神の采配か何かで仕事がないのだろうか?
もし自分に仕事とお金があったら今頃どうしているだろう?」

とふと考えることがありました。

そうして考えを巡らせてみると、
「正直、今の私はお金がないから彼の元を飛び出さないだけで、
おそらくお金があったら、とっくに彼と別れて別の街にいるだろう。
それでは、今の状況はお金を得ても彼と別れてはいけない、
彼と人生を共にする腹を括れというお告げかもしれない」
という
結論が自分の中で出てきました。

そこから「彼とは金銭感覚や文化、言葉の違いで苦労するものの
不器用だけどまっすぐな愛情をくれる人で、
彼が私の運命の人なのかもしれない。腹を括ってみよう」と思い
仕事と収入を得ても彼と別れない決意をした翌日に
何と三件もの仕事が同時に降ってきました。

一つ目は日本総領事館での在外選挙の短期バイト、
二つ目は清掃員の仕事、
三つ目は倉庫での梱包作業の仕事でした。

 

結局、倉庫での仕事を選び、
そこでは気のいい同僚に恵まれ毎日楽しく働くことができました。

収入は高くはなかったですが
彼に養ってもらう必要がなくなり、
自活でき貯金もできるようになりました。

【元箱入り娘の叩き上げの原動力とは?】

 

私は不器用で要領が悪いですが、
失敗から学べるという強みがあります。

貧乏だった期間では、
そもそもお金がなぜ必要なのかということを考え、
お金との付き合い方を学び、その学びを徹底的に実践しました。

問題や事象に真摯に向き合って本質を掴み、
他の問題に応用するというのは
私が大学院で得た知的技術です。

 

この知的技術こそが私をして原発事故後の日本政府を疑わせ、
放射性物質の危険性にいち早く気づかせてくれました。

知的技術を駆使して出した自分の結論を信頼できたからこそ、
親の葬式以外は日本の土をもう踏まないのだと腹を括れて
最初は知り合いすらいなかった外国で泥臭く踏ん張れました。

最初は日本食レストランでの仕事しかできなかった私ですが、
たくさんの失敗をして学んでいった結果、
時間はかかりましたが渡豪一年後にはローカルの仕事ができ、
ニュージーランドに移ってからはバリスタの仕事をやり、
日本語教師の仕事をやり、
そのツテで今では日系企業で秘書をしています。

仕事探しで度々苦労して「手に職さえあれば」と
数えきれないほど悔やんだ反面、
知的技術は咀嚼され私の血肉になっていて
それこそが私の「手に職」以上のスキルであり、
あるいはスキル以上のものなのだと今では考えています。

自分は一人で生きていけると思っていたのに・・・

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私は日本を出てからというものの、
人間の暖かさをとても感じるようになりました。

居住国の言語である英語をうまく操れないというのは
様々なハンデを背負うことであり、
日本では自分一人で何の問題もなくできていたことができなかったりします。

うまく話せず理解してもらえなかったり
相手が言っていることが分からなかったりして、
一人前の扱いをされない屈辱を受けたりもします。

オーストラリア滞在六ヶ月目に銀行に口座開設に行った時は、
自分が質問しているのに、行員は自分の隣に座っている
ネイティブの配偶者の方ばかり向いて答えていて
自宅に帰ってから悔し泣きし、配偶者に当たり散らしていました。

同じ週に手の皮膚が荒れていたので薬局に行きたかったのですが
説明が分からないかもしれないので配偶者についてきてもらい、
薬の塗り方や頻度など私の横で聞いてもらいました。

自分では3割ほどしか分からなかったので・・・。

29歳にして自分に処方される薬、
自分の体のことなのに説明を理解できないことが
とても情けなく、悲しい気持ちでいっぱいでした。

その一方で、来たばかりの国には家族や親戚、友人がいないので、
自然と見知らぬ他人の好意にすがる機会が多くなります。

方向が分からずに道で地図を広げていると
「大丈夫?」と色んな人からにこやかに声を何度も掛けられました。

降りるべきバス停を乗り過ごしてしまって運転手に尋ねると、
他に乗客がいなかったので
タクシーのように目的地の目の前まで運転してくれました

多くの人が自分の拙い英語を一生懸命理解しようと耳を傾けてくれたり、
ゆっくりと話してくれました。

他人の好意に頼らなければ生きていけない環境に行くことで、
自分は初めて人の温かさに気づきました。

日本では母国で勝手が分かっており、ビザや言語の制約もなく、
「自分は一人で生きていける」と思い込んでいましたので・・・。

日本では道端で知らない人と目が合っても目をそらすだけですが
こちらの人は微笑み合うことが多く、
それがきっかけで少しの間お喋りをすることさえもあります。

とにかく人との距離が近いです。

私は日本にいた頃には知らない人には話しかけませんでしたが、
こちらに来てからはかなり話しかけるようになりました。

全ての人がそうというわけではないですが、
ほとんどの人にとって互いに100%善意で接するのが普通なので
懐に飛び込むのが怖くないという感じです。

日本で「人が冷たいなぁ・・・」と感じている人は
オセアニア地域を訪ねてみても良いかもしれません。

計画通りに行くのが良い人生とは限らない?

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「一年後にどこで何をしているかさっぱり見当がつかない人生」

…というと、日本人的な一般的な感覚では
おそらく非常に不安定な響きでしょう。

計画性というのもがないのか、と。

でも、一度そんな人生を送ってみると、
楽しくて仕方ありません(笑)

未来は分からないことだらけで、
でもだからこそ人生は楽しいのだと。

早いもので、日本を飛び出してから早4年が経ちました。

 

 

私が日本を出たのは2012年5月26日です。

毎年、一年前のその日の自分からは
想像もできない状況に自分が置かれています。

今年の5月26日はシェアメイトがいないユニットに配偶者と住み、
フルタイムでCBDにある日系企業で
受付兼秘書としてオフィスで働いていました。

 

 

一年前の同じ日はWork Visa based on partnershipの申請中で
ビザが降りるか毎日不安でした。

仕事はパートタイムの日本語教師しかなく、
貯金が全くできませんでした。

シティーにあるシェアに住み、
嫌なシェアメイトに当たっていたので
早く引っ越したいと毎日願っていました。

二年前の同じ日はオーストラリアでのワーキングホリデーを終えて
ニュージーランドに来たばかりでした。

彼と二人でバッパーに泊まり、
すぐに引っ越しできるシェアを探していました。

三年前のその日はオーストラリアでの一年目のワーホリを終え、
シドニーで仕事を探していました。

仕事がなかなか見つからず、
彼に養ってもらっていました。

200連敗を覚悟しながら毎日レジュメを配り歩いていました。

四年前のその日はオーストラリアに到着したばかりで
これから外国で、たった一人で自分がやっていけるだろうか…と
緊張していました。

一刻も早く日本を出たかったので、
少ない貯金額で現地に行ったため金銭的余裕がなく
仕事をすぐ見つけなければ、と焦ってもいました。

きっと来年のその日も、
今の自分からは想像できない場所にいて
想像できないことをしているのだろうなと思います。

 

 

そもそも、人生において自分がコントロールできることは
実はとても少なくて、周りの変化や運により
簡単に左右されてしまうのが実情だと思います。

日本にいる時や渡豪当初は
物事が計画通りにいかないことに苛立っていましたが、
あまりに変化が多いので、
変化が起きることに慣れてしまいました(笑)

 

自分が変えられるものは最善を尽くして変え、
自分が変えられないものは受け入れて楽しんでしまおうと。

変化を恐れるのではなく
楽しんでしまえというように考えが変わりました。

同じ国で一年半頑張ってみると得られる意外な果実

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海外に住んでいるというと
「憧れる」「かっこいい」というイメージがありますが、
実際に住んでみるとそのイメージは崩されます。

 
外国に住むというのは、
自分が持っているビザの種類により
就労や就学に制限が課されたり、
言葉の壁や文化の違いといった苦労がありますので
やはり生半可なものではありません。

母国にいる家族と親族、友人と離れ離れになりますし、
人種差別をされることもやはりあります。

しかし、自分の経験では、一年半一つの国に住み続けると
その国に住むことが徐々に楽になってきます。

私はこれまでオーストラリアとニュージーランドに
二年ずつ滞在し、合計で約四年間海外に住んでいます。

 

オーストラリアではAPLaCの田村さんにお世話になったので、
田村さんと、自分の同期の人達と到着初日に繋がりができました。

ニュージーランドではオーストラリアでできた配偶者が
私より先に現地にいてすぐ合流したので
顔見知りすらいない国に完全に一人…
という訳ではありませんでした。

それでも、家族や親戚、友人と同じ国にいないのは
やはり心細いものです。

仕事も手に職がある訳でもない私は、
オーストラリアでは到着当初は
法定最低賃金以下の単純労働のものしか見つからず。

ニュージーランドでも最初の一年半は
パートタイムの日本語教師の仕事しかなく
経済的に余裕のある生活をできませんでした。

また、どちらの国でも最初は新しい生活に慣れるのが精一杯で、
生活にやっと慣れてくると、
ふと「私は何で外国でこんな苦労をしているんだろう?」と
悲しくなることもありました。

「大学院の博士課程まで親のお金で行ったのに、
わざわざ外国でこんな低賃金の単純労働をして…
何て親不孝なのだろう」と。

また、人見知りな私は知り合い程度はたくさんできたものの、
友人となるとなかなかできませんでした。

学校や仕事場で話すくらいの間柄の人はできても、
プライベートで会うほどの仲にはならず。

シェアメイトとは仲良くなれたとしても、
基本的に家具付きの家に暮らしているのは
ワーホリなどの短期ビザの人が中心なので
旅に出たり母国に帰ったりで、運の巡り合わせもあるのか
すぐに離れ離れになることが多かったです。

ところが、一年半ほど住み続けてみると
どちらの国でも友達が少しずつできてきて、
良い仕事も見つかり、物事が軌道に乗ってくるようになりました。

 
オーストラリアでは一年半が経った頃に
とても良いLanguage Exchangeのパートナーに恵まれ、
今でもたまに連絡を取るほど仲の良い友達となりました。

また、仕事も倉庫での単純作業でしたが
それまでの仕事に比べてとても収入が上がった仕事を
フルタイムですることができました。

さらに、その仕事の同僚達が良い人で、
プライベートで遊ぶほど仲の良い友達になれました。

オーストラリアにもっと滞在していたいとは思っていましたが、
残念ながらビザが二年しかなかったので
ニュージーランドに渡りました。

ニュージーランドでは一年半経った頃に
パートタイムでしていた日本語教師の仕事の上司の紹介で
日本語と英語を話せる受付のポジションに応募したところ、
幸運にも採用されることになり、自分には日本でも未経験だった、
正社員としてのフルタイム雇用を手に入れました。

また、オーストラリアと同様苦戦していた友達作りも、
先月に諸事情から短期のシェアメイトを募集したところ
その人がとても良い人で友達になりました。

週末はその人とマーケットに行って美味しい物を食べたり
車の運転を教えてもらったりと、楽しい時間を過ごしています。

基本的には、滞在の予定が長期であればあるほど、
「辛くても自分はこの期間この国で生きていくのだ」と
腹をくくる必要があります。

辛くなり帰国の選択肢が頭をよぎることがあると思いますが、
だまされたと思って、
一年半だけもがいて最善を尽くしてみてください。

そこにいるだけでどんどん現地で人と知り合っていきますし、
その国にも詳しくなっていきますし、
状況はどんどん良くなっていくはずです。

突然シェアメイトが失踪したら…

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3年半ほどシェア生活をしてきた中で
色々なシェアメイトと出会ってきました。

一番強烈だったシェアメイトは、
21歳なのに14歳と年齢詐称して売春していて、
ある日突然失踪したオーストラリア人の女の子のシェアメイトです。

そのシェアメイトと私はシドニーで出会いました。

当時、私は彼とCampsieという中華街にある
ゲストハウスで暮らしていました。

そこに彼女が引っ越してきたのですが、
私には本当に天使のようないい子でした。

シドニーにある大学に通っている21歳の大学生で、
最初の一週間は彼氏と一緒に泊まり、
その後は彼女だけがそこに残って暮らしていました。

引っ込み思案な私にいつも笑顔で話しかけてくれて、
色々と助けてくれたりと、良いシェアメイトができたと
喜んでいました。

ところがある日、彼女が何の前触れもなく姿を消しまいました。

彼女の失踪に気づいたのは、
週払いの家賃が振り込まれていないと気づいた
ゲストハウスのオーナーでした。

「彼女を見たら家賃を払うように言ってくれない?」と
私や他の住人が頼まれたところで、
彼女をここ一週間ほど誰も見ていないことがわかりました。

彼女の携帯電話に電話してみても、
呼び出し音が鳴るだけで出てくれません。

皆で話してみると、どうも彼氏が最近浮気をしていて
それで悩んでいたことを話していたことがわかりました。

まさかそれを苦にしての自殺か、と心配しましたが、
それでも彼女からの応答はありませんでした。

それから2、3日が経ち、家賃の振り込みがないので
オーナーさんから彼女の荷物を撤去しなければならないから
手伝ってほしいと頼まれ、
私と、同じゲストハウスに住んでいたスウェーデン人の女の子と
オーナーのお父さんの三人で彼女の部屋に入りました。

彼女の部屋にある荷物は全てそのままで、
冷蔵庫にある飲食物もそのまま。

10日ほど経ったそれらはとてつもない悪臭を放ち、
水が入ったままのコップには
溺れ死んだゴキブリの死体が入っていました。

あまりの悪臭に吐きそうになりながら部屋を片付けていると、
彼女の日記のようなノートを見つけました。

そこには、彼女が子供の頃に
義理の父親から虐待を受けていたこと、
また自殺を臭わせる内容の文章が書かれていました。

これはただ事ではない、
もしかして彼氏に浮気されたショックで突発的に自殺したのかも、
それとも誘拐されたのかも、
いつも明るい彼女にそんな辛い過去があったなんて、
自分は何も気づいてあげられなかった…と
ものすごいショックを受けました。

同じ日にオーナーが警察に失踪人として通報し、
私は彼女と一緒に取ったお気に入りの写真を
警察に提供しました。

しばらくは夜寝る前に彼女のことが心配になり涙が出てきたり
とにかく無事でいてほしいとひたすら祈る日々が続きました。

そんな日が一週間ほど続いたある日、
オーナーさんから彼女についての衝撃的な話を聞きました。

 
私達が知っていた彼女の名前は偽名だったこと。

彼女は21歳だったのに14歳と偽って、
インターネット上で相手を探し売春していたこと。

この失踪は、その件に関して警察の捜査が及んだから
逮捕を恐れて突発的に逃げたのだろうこと。

この失踪以前から警察に追われていたこと。

警察官が携帯で電話を掛けると電話に出たものの、
「警察です」と名乗るとすぐに電話を切って
それ以降電源が切られていること…。

 

この話から浮かび上がってくる「本当の」彼女と、
私が知っている彼女の姿があまりに乖離していて
何とも形容しがたい気持ちになりました。

この話だけ聞けば彼女はただの外面のいい犯罪者だったというのが
「本当の」彼女なのですが、
私が知っている彼女の姿もまた、
「本当の」彼女だとしか思えなかったからです。

この気持ちをどう処理してよいか分からずにいたのですが、
他人をそもそも完全に分かることなどできないし、
気づいてあげられると考えることは実は傲慢ではないかと
思うに至りました。

 
「怪しまれたくない」という都合もあったのでしょうか、
そんなに辛い過去と現状がありながら、
私や皆に対して明るく優しく普通に振る舞ってくれた、
それがどれほどのエネルギーを必要とすることか。

そこにはきっと暖かい心や、
彼女の良心があったんだと思います。

彼女と共に過ごしたのは二か月ほどの短期間でしたが、
短期間であろうとも皆で過ごした暖かい普通の時間が
彼女にとって小さくとも救いとなったように願うばかりです。

いま彼女がどうしているかは全くわかりませんが、
もしまだ捕まっていないのなら、
一日も早く逮捕されることを私は願っています。

逃げて日陰を歩いている限り本当の幸せを掴めないのだから、
一度きちんとこれまでのことを清算するべきだと思うからです。

清算して初めて、彼女の本当の人生が始まるのだと。

何十年後でもいいから、
いつか日が当たっている道を歩いている彼女と再会して
良き友人になれたらなと思います。

オーストラリアの美容院事情

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オーストラリアの都市部には日本人が多く住んでいるので、
日本人経営の美容院があり、
日本人の美容師がどこの都市にもいます。

日本人経営でなくとも、
日本人美容師が現地人経営の美容院で働いていることもあります。

ですから、日本を出てからの三年間、
私はいつも日本人美容師にカットをお願いしています。

もちろん、日本人美容師だからといって
自分の好みに仕上げてくれるとは限りません。

それでも、白人しか切ったことのない
現地の美容師には私は怖くてお願いできませんでした…。

カット代は、どこもおおよそ女性は40ドルほど。

髪の質や量は人種によって異なるので、
白人の美容師に切ってもらうと
悲惨なことになる確率が高いです(苦笑)

アジア人の髪の扱い方を知らない美容師というのも、
本当に存在します。

白人の髪質は細くて柔らかく、
ハリのあるアジア人の髪質とは全く異なります。

現地で働いている日本人美容師に聞くと、
白人とアジア人は頭の形も違うのだとか。

アジア人は横幅が広いのに対し、白人は縦幅が長いそうです。

また、シャンプーをしていてもすぐ絡まってしまって
シャンプーをする側は大変なのだとか…。

私は貧乏だったので、前髪は自分でカットし、
他の部分は三か月に一回ほど
日本人美容師にカットしてもらっていました。

その日本人美容師は友人の友人だったので、
「青空美容室」と銘打って、
公園でカットしてもらっていました(笑)

価格はコネ価格の20ドル。

オーストラリアの公園では
誰が何をしていてもみんな気にしないので
散髪をしていても眉をひそめる人もいません。

オーストラリアでは全店店内喫煙禁止!?

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オーストラリアのすべての飲食店の屋内エリアには、
喫煙席がありません。

全て禁煙席です。

 
タバコを吸わない私のような人間には
これは嬉しいです。

日本では喫煙席と禁煙席が分けられていると言っても、
喫煙席の近くの禁煙席だったりしたら
区分けの意味がなくタバコの煙が来ますので…。

特に原発事故以降はタバコの煙を避けるよう意識しなければ、
受動的に内部被爆をしてしまいます。

汚染地域で作られている日本産のタバコが出回っています。

放射能は燃やされると濃縮しますので、
汚染された葉を燃やすものであるタバコは本当に危険です。

オーストラリアでは、
あらゆる飲食店内の屋内エリアでタバコを吸うことはできません。

日本で言えばビアガーデンのように屋外にスペースがある店だと、
屋外の席で喫煙をすることができます。

喫煙したいのであれば、屋外席に移動するか、
店の外に出るか必要があります。

誰かと一緒に店にいるのであれば
店の外に出るために会計を済ませる必要はありません。

店から数歩離れた入り口近くでみんな喫煙しています。

飲酒をすると喫煙をしたくなる人が多いせいか、
バーやパブの前を通ると
いつもタバコを吸っている人達がたくさんいます(笑)

受動喫煙を防止するために
屋内では完全禁煙になっているとのことです。

受動喫煙が防げるのももちろんうれしいですが、
料理を食べている時にタバコの匂いがしないのは
とても快適です。

せっかくのおいしい料理もタバコの匂いがきついと
味がよく分からなくなりますし。

オーストラリアで和食を作れるか?

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食べ慣れた食事中心の食生活を保つのは、
とても重要なことです。

私は、オーストラリアでもニュージーランドでも
できるだけ日本風の食事を自炊して作ってきました。

日本から直輸入の食材は、
アジア系スーパーに行けば販売されています。

 
しかし、私は放射能汚染を避けて日本から避難した身なので
日本の食材はこの3年弱、一切買っていません。

せっかく離れた場所にいても、
食物から内部被爆したら避難の意味がありません。

それに、日本からの食材は関税がかかって高いですから、
放射能汚染を気にしていない人でも
あまり買っていないと思います。

 
ですので、私が作る日本風の食事は
日本産食品を一切使わないものです。

色々と試行錯誤した結果、
思いのほか多くの調味料が代用可能なことに気づきました。

 
例えば、以下の三つは日本料理に書かせませんが、
このように置き換えられます。

味噌:韓国味噌
料理酒:白ワイン
みりん:白ワイン7と砂糖3
だし:ダシダ(韓国製牛肉シーズニング)
   チキンコンソメ

醤油はキッコーマンのシンガポール製造のものが
オーストラリアでもニュージーランドでも売られています。

原料の大豆がアメリカ産とのことで
私としては少し嫌ですが、
おそらくこれが一番安全な日本風醤油だと思います。

これらの調味料があれば、ほとんどの和食は作れます。

また、味も日本で食べていたものと
何ら変わりがありません。

こちらでは薄切り肉がないのが少し困りますが、
肉の塊を買ってきて半冷凍の状態で薄く切れば
薄切り肉風になります(笑)

薄切り肉はアジア系の肉屋でしか
売られていませんので…。

こちらでは薄切り肉を食べる文化がないようです。

完全に放射能フリーな食材のみで和食を作れるので、
現地での食生活の心配をする必要はありません。

オーストラリアで病気になると

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日本と違って、オーストラリアではこちらの判断で
眼科、皮膚科などの専門医にかかることができません。

歯科だけは別ですが…。

 
まずGPと呼ばれる一般医の診療を受け、
必要であれば専門医への紹介を受けます。

一般医は、全ての分野を浅く広く知っているお医者さんです。

診察料は、オーストラリアの国民保健に入っていなければ
15分のカウンセリングで大体6000円ほど。

国民保健は、外国人の場合は永住権を持っていなければ
加入できません。

もし薬が処方されるのであれば、薬代が別途かかります。

薬は日本と違って院内で処方されないので、
処方箋を持って薬局に行って薬を購入する必要があります。

薬局は病院の隣にありますので、
薬局へ行くのに体力を使うということはありません。

 
シドニー在住だと、日本人医師がいるなど
日本語で診察を受けられる病院が街中心部にあります。

他の都市だとどうかはわかりませんが…。

日本の海外保険に加入していると、
おそらく通訳サービスが付帯しているのではないでしょうか。

体調が悪い時に外国語を話すのは基本的に疲れますから、
やはり日本語で診察を受けられると安心です。

 
私が病院にかかったのは、
目の腫れた時や肌に湿疹ができた時のみで
説明がいらないような部位でしたので
近所の病院に行き英語で診察を受けました(笑)

患部を見せれば症状をすぐに分かってもらえますので。

胃や腸が痛いなど、
内臓系の疾患と思しき症状があれば
日本語で診察を受けた方が安心かもしれません。

海外で虫歯になるとこんなに大変

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オーストラリアとニュージーランドで虫歯になると、
本当に大変です。

私はオーストラリアで酷い虫歯になり、
神経を抜いてもらう治療で9万円かかりました(苦笑)

神経を抜いた歯は脆くなるので被せ物をしないといけませんが、
それはオーストラリアとニュージーランドでは一本20万円ほど。

日本を出てから何本も酷い虫歯になって
被せ物が三つ必要になった時点で
私は日本に一時帰国しました。

オークランドからの往復航空券が
直前価格で20万円。

日本で被せ物をした場合、
素材によるものの一本7万円ほど。

航空券など全て込みでも
日本に一時帰国した方が20万円ほど安くなるのです。

 
驚愕の高額治療費は、
オーストラリアとニュージーランド国民にも適用されます。

国民は国民保険に加入していますが、
歯科医療はカバーされないのです。

ですから、全て自費診療で治療費は非常に高額です。

民間の保険会社に歯科医療がカバーされる保険があるようですが、
加入後一年経過してからの治療に対してしか支払われないという
制約があるとか。

それでは、こちらの人達がたくさん虫歯になったら
一体どうするのでしょうか?

一か月ほど有給を取って、
タイやインドなど物価が安い国に家族旅行に行くのです。

そして現地で歯を治してもらいます。

私の場合と同じように、航空券など諸々を支払った後でも
まだお金が節約できるので…。

さらに日本よりも物価がはるかに安いので、
家族全員を連れてホテル代など支払っても
まだ節約ができるほど。

 

タイやインドの歯科医療の水準がどれほどのものかは
分かりませんが…。

オーストラリアとニュージーランドに来る人は、
絶対に事前に歯の治療を終えてから来ることを
お勧めします。