決意からわずか4ヶ月弱で海外避難

スポンサーリンク

26854389443_c6c874a811

 

気がつくとある日、右腕にいつまでも治らない湿疹ができていた。

薬を飲んでも病気の治りが遅くなった。

自律神経失調症で元々体調が悪かったものの、
極端に調子が悪くなり、起き上がれないほどになった。

これらは福島第一原発事故が起きてから半年後、
ずっと関西に住んでいた私の体に起きた異変です。

 

 

2011年3月11日に東日本大震災が起こり、
それに伴い福島第一原発事故が起きました。

関西では停電することもなく、水道やガスが止まることもなく
何も変わらない一日。

増え続ける死者や行方不明者の数をニュースで見ながらも、
家族、親類、友人、恋人すべてが関西の私には
正直遠い世界の話のようでした。

半年後に起き始めた不可思議な身体症状

何も気にせずに日常生活を送っていたある日、
右腕の小さい湿疹がいつまでも治らないことに気づきました。

湿疹というにはとても小さく、見た目には分からないのですが
触るとざらざらした感触が分かるものでした。

痒みも痛みもないので、そのうち治るだろうと
皮膚科にも行かずに放置していたのですが
三ヶ月ほど治らずにいました。

そのうち膀胱炎になり、薬を飲んでもなかなか治らず、
かかっていた医師も首を傾げていました。

 

何とか上記の状態から回復してしばらくすると、
それまで4年ほど患っていた自律神経失調症が
極端に悪化しました。

それまでも睡眠不足やストレスがあると悪化していましたが、
その時は特に悪化する要因もなかったのに
一日に一口ほどしかものを食べられず、
ほとんど起き上がれない状態になってしまいました。

自分が被爆していたかもしれないという恐怖

28448787223_07964986c8

 

起き上がれない状態のまま何気なくTwitterを開いていると、
私がフォローしていた東大の島薗進先生が
内部被爆の危険性を述べたツイートを投稿しておられました。

そこで「まさか・・・」と思いスマホで少し調べると、
チェルノブイリでは長期間の低線量被爆により
健康被害が発生した
という記事を見つけました。

 

長期間の=この半年間の
低線量被爆=関西での無頓着な飲食

 

と即座に結びつき、
「まさか・・・」とスマホを持っていた指先が冷たくなり
ショックで一瞬軽い貧血のようになりました。

「体調不良の今は、怖くて直視できない。健康になってから見よう」と思い、
それから漢方薬を飲んで何とか回復した一週間後に
ネットで検索して自分なりに色々と調べてみました。

それで調べて得た知識から、
自分のそれまでの半年間の不思議な身体症状は
内部被爆に由来していたのかもしれないと考えるに至りました。

膀胱炎も、排尿の際に尿道をセシウムが傷つけて起こるという
チェルノブイリではとてもありふれた病気だったそうです。

自分の身体での実験とその結果

 
そこで実験をしようと、そこから食材の産地を徹底的に選び、
生鮮食品も加工品も西日本の物のみに。

幸いにも関西に住んでいたので
近くの食料品店に売っている生鮮食品は西日本産ばかりでした。

加工品は西日本産のみの原料で加工も西日本となると
なかなか見つけるのが難しかったですが…。

 

 

その実験を始めてから一ヶ月すると右腕の湿疹が消え、
自律神経失調症の症状も安定してくるようになりました。

この実験により、私の身体症状は内部被爆に由来していたと
確度の高い仮説を得られました。

周囲の理解を得られない戦い

 

一度気になりだすと止まらなくなり、自分の健康にも関わるので
大学院での自分の研究を放り出して調べ始めました。

 

 

実家に住んでいた私は、気になり始めてすぐに
家中の加工食品の産地と製造地を確認し始めました。

私がシチューのルウのパッケージを台所で一つ一つ見ていると、
それを見た父に指を差され「アホや」と大笑いされたことは
今でも忘れられません。

 

近所の小さいスーパーで安全な加工食品を求めて
1時間もかけて買い物をしたこともありました。

 

 

大学院の恩師は「愛知県東部まで危ない」という私を
「そこが危ないんだったら関西も危ないことになる」と笑い
同僚は「福島に行かないのなら別に気にしなくても」と
呆れた顔
をしていました。

同い年で仲が良かった優秀な同僚は東京出身で、
東京が危ないという私を
「あなたは西日本出身だからそんなことが言えるんだ。
他人の故郷が汚染されていると言うなんて失礼だ」と
責めました

「他人の故郷が汚染されていると言うなんて失礼」ならば、
危険と分かっているのに何も言わずに見殺しにする方が
親しい友に対して礼儀を欠いているのでは?と思われましたが
本当に周りの誰一人として私に賛同してくれなかったので
「おかしいのは自分なのかもしれない」と思い
下を向いて黙っていました。

当時付き合っていた、結婚を前提にして付き合っていた恋人とも
放射能の危険性に対する見解の相違から別れました。

彼もまた東京出身で、
同僚と同じように東京が危険だという私と意見が一致せず、
将来が見えなくなったからです。

「仕事のためなら健康は犠牲になってもいい。
福島は無理だが、東北になら赴任してもいい」という
彼の価値観には賛同できませんでした。

私の父は私が小さい頃に脳梗塞を起こし、
それ以来右半身が麻痺して病弱になりました。

利き手で文字が書けなくなり、呂律がうまく回らなくなり、
走れなくなり、雨の日は常に右半身が痛み、体力は低下し、
働き盛りの年齢なのに週5日の仕事を
できる体力がなくなってしまいました。

「身体さえ健康だったら」と
いつも悔しがっていた父を見ながら育った
私には
健康を害するかもしれない選択肢を取ることは
できませんでした。

しかし、この彼と付き合っていた時に彼が私に話していた、
オーストラリアのワーキングホリデーに行った彼の友達の話が
結果的に私の運命を変えることになりました。

 

 

国外避難を決意するまで

 

食品の汚染が気になりだすと物品の汚染も気になりだし、
調べていくうちに産地や製造地が安全な地域でも
物流の際の経由地や保管場所が危険な地域だったりすることが
分かりました。

食品も物品も気にし始めると、
全ての安全なものを入手することは
西日本であっても難しいか、手間がかかります。

大気も、物流が制限されていないため
一般人が持ち込んだ東日本のゴミが焼却されているし、
季節や風向きによっては福島から風が吹きます。

 

 

外食も限られたお店にしか行けません。

付き合いもあるし、
いつも安全な外食のお店に行けるとも限りません。

行けない場合の方が多いでしょう。

かといって、自律神経失調症でいつも体調が悪く
英語も話せない自分は海外になんて行けないだろう、
大学院留学しかないだろうか、
しかし大学院留学できるほどの能力もない・・・と思い
悶々とした毎日を送っていました。

そんな時、上述の彼と付き合っていた時に聞いた
オーストラリアのワーキングホリデーの話をふと思い出し、
調べてみると私はそのビザを取れることが分かりました。

申請時に29歳以下の日本国籍保持者でさえあれば
働く権利のあるビザが一年もらえて、
オーストラリア政府の定める田舎の地域で
三ヶ月の季節労働をすれば更に一年の合計二年滞在できる、
というお金も手に職もない自分には夢のようなビザ
でした。

ビザの申請はオンラインでできるので早速申請し、
申請からたった二日でビザが降りました。

それでも外国に一人で乗り込むのは勇気がいるので
まずは情報収集を、と思いネットを見ていると
APLaCのページを見つけました。

そこにある過去のエッセイ
APLaCにこれまでお世話になった人の体験談を読み
「この人に頼んだら大丈夫そうだ」と確信してメールを送り、
5月下旬に一括パックの申し込みをしました。

決意をしてから実際に渡豪するまで

 

ビザを申請したのが2012年1月3日、
ビザが認可されたのが2012年1月5日、
渡豪したのが2012年5月26日でした。

身体症状が出始めてから7ヶ月、
決意してからおよそ4ヶ月弱で日本から出た計算
 です。

決意してビザを取ったにしても貯金がとにかくなく、
到着当初の資金を貯めなければ、ということで
派遣社員で三ヶ月だけ仕事をしてお金を貯めました。

 

 

一点の迷いもなく着々と日本脱出に向けて準備をしていましたが
それでもふと日本を出ることが怖くなり、
考え出すと全身が小さく震えだすことがありました。

 

英語がろくに話せないのに生きていけるだろうか?
手に職がない自分にどんな仕事ができるだろうか?
たかだか50万円もない貯金が尽きたらどうする?
知り合いすら一人もいない外国でやっていけるのか?
永住権だって取れるとは限らない、取れなければどうする?・・・

 

そんな時はいつも
「論理的に考えて、もう日本を出る以外に
自分が生きられる道はない。このビザに賭けるしかないんだ」

と自分を説得し、奮い立たせていました。

 

不慣れな仕事で忙しく働きつつ貯金をしていると、
あっという間に出発日になりました。

 

 

オーストラリアに到着してから

 

オーストラリアに着いてからは、最低時給が15ドルなのに
10ドルしか払わない日本食レストランでしか仕事を貰えず、
とても貧乏でした。

日本食レストランのウエイトレス以外の仕事にありつこうと、
履歴書を一年間配り歩いてかれこそ200枚配ったのに
面接にすら一件も呼ばれず、金銭的に辛い日々を過ごしました。

「親のお金で博士課程にまで行かせてもらったのに、
一体自分はこんな遠い外国まで来て何をやっているんだろう?」
と何度も考えました。

それでも、どんなに裕福であっても成功していても
健康さえなければ全てが水の泡である、という価値観の私は
綺麗な空気を吸えることに感謝していました。

貧乏で外食ができなくても
スーパーで安全な食材を買えることに喜んでいました。

 

「オーストラリアで永住権が取れなくても
29歳の自分は30歳までに申請すれば
ニュージーランドのワーキングホリデービザも取れるから
南半球で二年間半くらい過ごせるし、
永住権が取れなくともせめて良い保養になるだろう」と。

学業、キャリア、家族、恋人、友人、故郷、健康、
どれも大事ですが、それでもなお優先順位をつけて
行動に出ることができた自分を誇らしく思います。

何かを得るためには何かを失わないといけないのですが、
それを仕方のないことだと割り切れる強さが
自分の長所かもしれません。

タイトルとURLをコピーしました