学術的訓練は現状の危機を認め、警鐘を鳴らしうるのか?

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私が大学院で修士課程で研究していたのは、
日露戦争を始めとして国民の大多数が主戦論であった時に
内村鑑三という人物がなぜ非戦論を貫けたかということでした。

また、博士課程での研究テーマは
内村鑑三の弟子達もまた、全員ではないにせよ、
第二次大戦時の国家主義全盛の時代に
政府の欺瞞に気づくことができ非戦論の立場を取ったので、
それがなぜ可能だったかということでした。

修士論文では、
「内村は日清戦争時で主戦論を唱えていたが
美辞麗句に彩られた戦争の実質は侵略戦争であったことに
ショックを受けて戦争の本質を学んだからだ」
と結論を出しました。

博士論文は結局書かなかったものの、博士課程での研究テーマに対しては、
「内村の非戦論の薫陶を受けてそれを継承した弟子達が
主戦論者と非戦論者に別れたのは、
彼らの聖書解釈(特にイザヤ書)の差異にある」
と結論を出していました。

しかし、聖書解釈の差異が要因といっても、
なぜそのような解釈をするに至ったのかと考えてみると
内村のように日清戦争で戦争の内実を見たという
明確な転機がないのであれば、
最終的には本人の生育暦や性質、性格、嗜好などに
原因が求められることになります。

また、侵略戦争であるという事実を突きつけられても
それを否認し認められない種類の人も存在しますので、
美辞麗句に彩られた戦争の実際を見分しても
それが転機になるかはやはり人によるとも言えます
(ドイツや日本の歴史修正主義者を見れば分かります)。

したがって、結局は聖書解釈の差異が生じた要因を割り出せず、
また割り出せとしてそのような再現不可能な要因を共有はできても
実践するのは不可能であり、また意味があまりあるとは思えないので
何ともモヤモヤした感じで研究を終えました。

原発事故以降、アカデミアの人間が
「正しく怖がろう」という呼びかけをしているのを目の当たりにして
私は本当に驚き、また絶望し、
学術的訓練とは一体何なのだろう?と考えさせられました。

本人達は「科学的・学術的事実」に基づいて
「正しく怖がろう」と言っているつもりな訳ですが。

もちろん全員がそんな風ではなく
私のようにそうではない者もいますし、
私よりも早く放射性物質の危険性に気づいて
警鐘を鳴らした/今も鳴らし続けている研究者もまたいます。

原発事故と私が研究対象としていた時代とでは状況が違いますが、
政府が悪い行いをして、国民に対してそれを美辞麗句で隠蔽している状況は同じです。

 

私は自分の体に起きた変化で
事故後半年経ってようやく政府が放射能物質の人体への影響を過小評価し、
また隠しているのでは?と気づいたという鈍さでしたが…。

気づいてからは怒涛の勢いで調べ出し、
「政府を信用しないなんて」と笑う周囲をよそに
気づいてから約4ヶ月で海外避難への決意を固め
約8ヶ月後には大学院を退学してオーストラリアにワーキングホリデービザで飛び
海外への避難を完了しました。

それでも、体調不良が起こらなかったら
今でも日本の急激な右傾化には気づけていたでしょうが
その右傾化は原発事故が根本的要因であることに
気づけていていたかはどうか怪しいかもしれません。

研究者の多数派が政府の放射性物質に関する対応に全幅の信頼を置き
史料批判や批判的思考などの身につけているはずの学術的素養を何ら生かせず
むしろ現状を肯定する「正しく怖がる」ように呼び掛ける様は、
学術が権力に戦いさえせず敗北した
ように私には感じられました。

史料批判や批判的思考ができるのであれば
チェルノブイリ原発事故の文献に当たって
現状の危機にすぐさま気づけるはずだからです。

こうした状況を振り返って、私が内村の思想を研究して

「時代の主潮が国家主義であった時に
それに呑みこまれずに反権力思想を持ち続けられた要因を探り、
そうして探し当てた要因を共有することにより
時代の主潮が間違った方向に行かないようにできる教訓はないか?」

と考えていたように、

「もし後世の研究者が自分の思想を同様の理由で研究するとしたら?
そこに何か未来に生かせる教訓は存在するのか?」

とふと考えることが何度かありました
(私が内村のように偉大な思想家であるということではありません)。

自分で思いつく限りでは、
自分が日本政府が間違っていると考えられたのは以下の要因からです。

・内村鑑三の著作を何年も読み続けそこから影響を受けたこと
・内村研究をする中で、日本政府が大きな悪事を行っていた一方、
 国民にはそれを美辞麗句で隠蔽したことが
 近現代で少なくとも二度もあったと知ったこと
・原発事故後半年の無頓着な食生活で体調不良が起こったこと
・学術的訓練から得た史料批判の方法などを駆使して
 チェルノブイリ関連の資料などを読み
 日本政府とソ連政府の対応の共通点に気づいたこと

このような様々な要因が合わさっているので、
違う時代で違う人間が再現して政府を疑えるか、というと…。

同じ内村の著作を読んでも原発事故に対する日本政府の対応に
何の疑問も持たない人達だっていますし、
体調不良は原因が放射性物質と考えつく人の方が珍しいでしょう。

学術的訓練を受けてチェルノブイリ事故の資料を読んでも
危険性を理解できず「風評被害を撲滅しよう」と
頑張っている研究者達(しかもそちらが主流派)もいます。

結局間違っていることを間違っていると学術的に考えられるのは
本人の素質による
のかな、と身も蓋もないことを最近考えています。

人間は感情の生き物なので、事象に対して感情や何かが先に来て、
結局はそれを学術的な装いで補強しているにすぎない
のかもしれない、など。

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