ある日いきなり倒れて健康を失ったら

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私が人生で一番大切にしていることは、健康です。

仕事が第一、というのは私には考えられません。 

というのも、私は父が健康を害して苦しんでいる状態を
子供のころから見てきたからです。

私の父は私が小学校低学年の時に脳内出血で倒れ、
命は助かったものの、障害が残りました。

今ではリハビリのかいあって日常生活は送れていますが、
右半身に今でも麻痺が残っています。

倒れた当初は完全に半身不随で、
体の右半分が全て麻痺しているので発話することも難しく、
入浴も一人ではできず、母が懸命に支えていました。

利き手が使えなかったり言葉がうまく出ないなどの苛立ちからか
短気になり怒鳴ることが多くなり、生活が一変しました。

私は小さかったので覚えていませんが、
母の話では倒れる前の父は気が長く、
決して声を荒げることがない人だったそうです。

私が覚えている父は物心ついた時から
短気ですぐ声を荒げて怒るという人なんですが…。

大きくなってから知ったのですが、
脳の手術後に性格が変わってしまうということはままあるそうです。

当時のことはほとんど覚えていない中で、
一つだけ覚えているエピソードがあります。

脳の手術をした後で、弟の名前を父は忘れてしまったんです。

「えーと…(弟を見て)名前、何やっけ」と
お見舞いに行った時に父が私たちに聞いたのを覚えています。

弟の名前を教えたのですが、手術で脳のどこがどうなったのか、
「かず」という私たちと同年代のはとこの男の子のあだ名で
弟を呼ぶんですね。

そのたびに母や弟、私が訂正していました。

そして、「ああ、そうやった。なんでかずって呼ぶんやろうなぁ…」と
本人も不思議がっていたのが衝撃でした。

今では基本的にこれは収まりましたが、
今でも、ふとした時に弟をとっさに
「かず」と呼んでいる時があります。

すぐに気が付いて、自分で訂正するんですけどね。

当時の父は祖父が経営していた自営業の会社で働いていて、
祖父が便宜を図ってくれ長期の休みを取れたので
解雇になることもなく、
半年後か一年後だったかに元の条件で復職したので
しばらくは経済的に困ることはありませんでした。

父はエンジニアだったのですが、
利き手が使えなくなった分は口頭で指示を出し、
他の人にできない作業を代わりにやってもらっていました。

倒れてから10年後、私が高校生になった時に
不況のため祖父が会社を畳み、父は職を失いました。

父はエンジニアだったので、もし右半身に障害がなければ
すぐに他の会社で何の問題もなく職を得られたのですが、
自分は口頭で指示を出すだけで、
他の人にやってもらえるという環境は
自分の親族がやっている家族経営の会社でなければ難しく、
就職活動に苦戦しエンジニア復職をあきらめました。

しかし私と弟は小さく、これからお金がかかる時期でしたので
父は仕事をせねばならず、
手先の精密な作業が要求されない人手仕事に絞り仕事を探しました。

とはいえ、手術で体力がとても落ちた父の体は
体力が要求されることが多い人手仕事に耐えられず、
やっと仕事がもらえても一日目で倒れてしまったり、
体力的にとても続きそうになかったりということが続き、
フルタイムでの仕事はもう無理だと判断し、
週3~4日の勤務で良い嘱託のタクシーの運転手になりました。

車の運転は問題なくできましたし、
手先の作業はお客さんを乗せた後に
売り上げなどを紙に記入するというものだけでした。

しかし、タクシーを運転していると人が急に飛び出してきて、
それでぶつかったのに車の方が責任が重く、
相手の入院先に謝罪文を持って訪れなければならなかったりと、
父はその仕事が好きではありませんでした。

でも、私と弟の教育費のために
歯を食いしばって仕事を続けてくれました。

母はもともと近所でパートをしていましたが、
父の収入が良かったので生活費に入れずに
家族旅行などのためのお小遣い稼ぎの目的だったのが、
パートを増やして生活費に全部入れるようになりました。

仕事探しの間、たびたび父が「体さえ健康だったらな…」と
言うのを聞いていましたし、
働き出してからも「今日は雨で体が痛い」等と言いながら出勤し、
わずか6時間の仕事終わりに
ぐったりと疲れて横になっている父の姿を見て育ちました。

父は倒れてからは病院に定期的に検査に行き服薬せねばならず、
検査代や薬代が高額だったりして、
病院からの領収書を見てため息をついている
両親の姿をよく見ました(今も見ます)。

父が居間でいつも座っている椅子の横には高さ30センチほど、
幅20センチほどのプラスチックの瓶があり、
そこにたくさんの種類の薬がぎっしりと入っています。

それはたったの一か月分です。

父は生きている限り、
定期的な検査と毎日の服薬を続けなければいけません。

私はこんな家庭環境で育ったので、
「健康がなければ何にもできない」という価値観を持ちました。

仕事も趣味も大事ですが、それを一番にして健康を失ってしまったら
結果的にその一番大事なものを失うと私は思い、
日本脱出を決めました。

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