プロフィール


菊川美代子

2012年3月に同志社大学大学院博士課程単位取得退学、2012年5月にオーストラリアへワーホリビザで渡航。
オーストラリアで2年間のワーホリ、NZで1年のワーホリを経て、現在はパートナービザ(Work Visa Based on Partnership)にてNZに滞在しています。
オーストラリアで出会ったアイリッシュのパートナーと永住権目指して奮闘中。
私のオーストラリアワーホリ体験談はこちら

→詳しいプロフィール

ご連絡はmiyoko.kikukawa★gmail.comまでどうぞ。(★を@に変えてください)

生まれる国を間違えた疑惑

 

日本を飛び出して以来、
水を得た魚の様に生きるのが楽になりました。

日本で生まれましたが、
「生まれる国を間違えたのかも」と思うほどです(笑)

日本を出る前は
「海外での暮らしは日本より苦労が多いのでは?」
という先入観がありました。

確かに言葉や文化の面などでの苦労は日本より多いですが、
精神的な面では日本にいた時より遥かに楽になりました。

以下に私が日本を出ることになった経緯と、
日本を出てからの経験を書いてみます。

一人暮らしすら未経験で海外生活開始

日本での私は大学院生で、
生まれも育ちも関西でずっと実家から通学していました。

一人暮らしの経験はなく、
実家でも家事の手伝いは一切せず、生活力は0の状態。

日本から出る前の海外経験といえば、
海外旅行に数度出かけたことがある程度。

 

そんな私が一大決心をして日本を出ようと思ったのは、
原発事故後に自分に起こった体調の変化でした。

今までに感じたことがない体の異変

おかしいと思っていたところに
Twitterにてふと目についた原発事故の話が気になり調べると、
内部被曝の話を目にしました。

そこで、チェルノブイリについての文献や論文を読み
内部被曝の危険性を学びました。

私の専門であった神学や宗教学、歴史学とは異なる分野の資料ですが、
信頼が置ける文献や論文の見極め方は同じなので
大学院で身に着けた知的技術が私を思わぬ形で助けてくれました。

それらの資料から得た知識をもとに
それまで気にしていなかった食べ物を
加工食品も生鮮食品もすべて西日本のものにしてみたところ、
全ての症状が一か月もしないうちに消え失せました。

この結果から、
原発事故後に放射能汚染された食べ物から内部被爆をしていて、
それが原因で体調不良が起こったのだと結論を出しました。

食べ物を西日本のものにするといっても
外食では全て西日本の食べ物にするのは不可能ですし、
物品の放射能汚染も気になりだしたので、
もう日本を出てしまおうと決意しました。

武器は学術的思考のみ

日本を出ようと決意したものの、
大学院生だった自分には手に職もキャリアもなく、
英語にも不安がありました。

専門分野の論文を英語で読んではいましたが、
読むペースは遅く、
論文で書かれているような英語は文語なので
日常会話では堅苦しすぎて不自然で使えません。

そんな自分にできることといえば
不器用ながらも自分にできることを精一杯やることでした。

最初の数ヶ月間日本語を話すのは月に一度あるかないかという
英語漬けの環境に自分を追い込んだり、
違法低賃金の日本食レストランで働かざるを得なかったので、
国内の外国人からの収奪を孕む移民国家の矛盾を考えたりと。

 

どんなに金銭的、精神的に苦しい日々が続いても
自分の学術的・知的技術を駆使して出した結論に
絶対の信頼を置いているので
「自分がこんな苦労をしてまでも
ここにいるという選択は絶対に正しい」という信念を持ち
踏ん張ることができました。

 

 

貯金なし・手に職なし・要領悪しで海外長期避難

英語が不安だった私は
シドニーで語学学校に10週間通うことにしました。

日本から持ってきた貯金が50万円弱で、そこから学費を払い、
シェア入居のための預かり金を支払った後は
数万円しか手元に残っていない状態でした。

すぐにでも稼げる仕事を探さなければいけなかったのですが、
当時の最低法定賃金が15ドルだったのに、
技能も英語力もない私は
時給10ドルという違法賃金の日本食レストランでしか
仕事がもらえず。

そこで日系ではない仕事を探したのですが、
200件ほど応募したのに面接にすら辿り着けず
一年近くフルタイムの仕事が見つかりませんでした。

最終的にはコネでフルタイムの単純作業の仕事が見つかり、
経済的に何とか独り立ちできましたが・・・。

やはり暮らしていく上で生活費がかかるので
長期避難のためには仕事にありつけることが重要です。

なかなか仕事が見つからなくても
腐らずに粘って英語を磨いて仕事を探し続ければ、
私のような人間でも一年以内に単純作業とはいえ仕事が見つかり
海外で何とか経済的に自立できました。

しがらみがない世界に住む

オーストラリアとニュージーランドに住んでいると、
日本で雁字搦めになっていたような
「家族・親族」「世間の目」「年齢」といった
しがらみから開放されます。

多民族国家では一人一人の人間の常識が異なるのが当然なので、
「こうあらねばならない」という型を押し付けられないからです。

一人一人が違って当たり前なのが大前提なので、
「周りがそうするから従うしかない」という
日本のような同調圧力がありません。

 

「○歳なら、そろそろ結婚しないと」
「そんなことをしたら世間の目が…」
「いい年をしてこんな服を着るとみっともないと思われる」
「周囲と違う自分の意見を言うと浮いてしまう」

 

…ということが一切ありません。

 

誰が何歳でどこで何をしようが一切自由ですし、
個人の選択が尊重されます。

周りの目を気にしすぎていた私は
自分が本当にしたいことが分からなくなっていました。

今では本当の自分を出せるので、毎日気持ちよく過ごしています。

志が同じ仲間との出会い

大人になると本当の友達や仲間は出来ない、と
日本ではまことしやかに時として言われているのを聞きますが、
私はむしろ日本を出てから良い友達や仲間に恵まれました。

私は渡豪の際にAPLaCという個人エージェントを利用しましたが、
このつながりで多くの尊敬できる仲間と出会えました。

ここの卒業生は異国の地で日本人村どっぷりにならずに
一匹狼で道を切り開いている人達です。

日本での「常識」が実は「常識」ではないことを皆共有していて、
例えば「将来は起業をしたい」という話や
将来自給自足の共同体を作りたいという話、
海外に永住したいという話をしても
誰も「そんなのは無理だ」「日本が一番」という反応をしません。

その代わりに、「どうしたらそれが実現できるか」ということを
一緒に考えてくれる人達です。

日本以外で自力で生活した経験があるからこそ
初対面でも初対面ではないかのように話し込める
不思議な仲間がたくさん出来ました。

西欧ではポピュラーな事実婚をしてみた

日本では事実婚はまだまだ馴染みがなく
「日陰の存在」のような印象かもしれませんが、
オーストラリア、ニュージーランドを含めた
西欧文化圏の若者の間ではとてもポピュラーです。

私は日本人なので、「なぜ結婚しないのか?」と
何度もアイルランド人の彼と喧嘩しました(苦笑)

事実婚と結婚の違いは、正直そんなにありません。

法的な権利については結婚と同じ権利が与えられます。

同性同士で結婚できない国がまだまだ多いので、
おそらく一番の違いは、
同性同士でもできることではないでしょうか。

察してくれない相手との長いお付き合いを経て…

アイルランド人の彼と付き合い始めてから、
何度喧嘩をしたか分かりません(笑)

文化の違いは話せば最終的には理解できるのですが、
お互いが当たり前だと思い込んでいることほど
相手の常識と外れていたりするので
最初は文化の違いと認識できずにたくさんの喧嘩をしました。

例えば、西欧では人前で男性が彼女の腰に手を回すことは
極めて普通です。

人にもよりますが、
日本では人前では手を繋ぐのと腕を組むのが限度かと思います。

 

付き合い始めて数ヶ月目、彼と一緒に道を歩いている時に
前から日本人の友達が歩いてきたので
彼が私の腰に回していた手を
反射的に振り解いたことがありました。

私のその行動に対して彼は激怒。

西欧では人前で彼氏や配偶者の手や腕を解くのは、
「彼氏や夫を恥ずかしく思っている」からなのだそうです。

だから、「君は俺を恥ずかしいと思っているのか!」と・・・。

彼は「人前でベタベタするのは恥ずかしい」という
日本の常識を知らず、
私は自分の行動がそんなジェスチャーになるという
西欧の常識を知らず、
二人ともお互いの行動の訳が分からず言い合いになりました。

万事が万事こんな調子なので、
「言わなくても察してほしい」というのは無理です(笑)

最初はしんどいですが、その分話し合う機会が多いので
今ではお互いが何を考えているか分かるようになり、
誰よりも分かり合えるようになりました。

実は日本よりも海外で働く方が楽

海外で働くなんてハードルが高いと思われるかもしれませんが、
実は一旦働き始めるとハードルは低いです。

日本人は基本的に真面目なので
日本人の「普通」の基準で仕事をこなすと
大変な働き者として重宝されるからです。

 

 

ちなみに、私の日本でのバイト時代の勤務態度は

「忙しくても同じ給料なら暇な方が良い」
「始業時間ギリギリに来て終業時間になったらすぐ帰る」

でした。

日本では「不真面目」「やる気がない」といわれる態度ですが、
こちらではごく当たり前の態度です。

給料が発生しないのに仕事場に早めに来ないといけないなんて
クレイジーとしか思われません(笑)

会社員が毎年約二か月間の有給休暇を楽しむ異世界

こちらでは毎年4週間の有給が与えられて、
従業員は基本的にそれを完全に消化します。

「基本的に」というのは、貯めることができるので
2週間しか取らなかった年の翌年は6週間取れたりできます。

未消化の有給は退職時に現金に換算されて支払われます。

4週間の有給休暇に加えて、会社によって長さは違うものの
年末年始はクリスマス休暇で2週間ほど会社が閉まります。

それに加えて、有給とは別に病気休暇の権利が
最低でも年5日定められています。

病休でももちろんお給料は支払われます。

という訳で、一年の内二ヶ月弱は働いていない計算に。

日本だと学部卒や院卒の22歳や24歳で就職した後、
丸々一ヶ月の休暇を取れるのは基本的に定年退職後ですよね。

この世界でするべきことなど何もない

日本にいた時は
「生まれてきた以上は何か使命があるはずだ」と考えて、
自分は何をするべきかを探し続けていました。

研究者の夢を諦めて宙ぶらりんの状態になった時に
「しなければいけないことなど何もなく、
ただ生きて毎日を楽しめばいいのだ」とある日ふと納得し、
長い間苦しめられていた焦燥感のようなものがなくなりました。

この世界の大多数の人達は何がしたいか分かっていないし、
それでも何となく日々を楽しく過ごして生きているのだろうと。

手に職もコネもない自分がそれでも日本を飛び出したのは
生きたかったからという理由だけで、
自分はただ安全な場所で楽しく生きられればそれで幸せなのだ、
と思うようになりました。

明日死んでも悔いのない生活

逆説的ですが、こうして毎日を楽しんで生きていると
明日死んでも悔いがないようになりました。

もちろん配偶者や、子供をまだ産んでいないこと、
親より先に死ぬことへの心残りはありますが、
置かれた状況で常にその時点で出来うる最善を尽くしてきたため
悔いがなくなりました。

「自分にやれることは全てやった」という感覚です。

…こうして見ると、
思い切って行動さえすれば手に職がなく要領も悪い
私のような人間でも海外長期避難は可能なことが
分かってもらえるかと思います。

大人気観光地での思わぬ発見

 

12月28日から31日まで、ニュージーランド北島にある温泉街、
Rotoruaに旅行してきました。

写真はロトルアから車で20分の場所に位置する
Waiotapu Thermal Wonderlandの中にある天然の温泉です。

100度なので浸かれません(笑)

現在、不動産バブルでオークランドの家賃はとても高いです。

そのため、永住権を取った後など
ゆくゆくはオークランドを出たいと考えていて、
引っ越し先の街の候補を見ておきたいので
その下見も兼ねていました。

ロトルアは観光地として大変整備されていて、
様々なアウトドアのアクテビティーが揃っています。

 

私が参加したアクティビティーは
ウォーターラフティングCanopy Tourでした。

ウォーターラフティングは川下りで、
ウェットスーツに着替えてボートを漕ぎ、
最大で7メートルの滝を下ったりして楽しめました。

途中で休憩場所(?)の3メートルほどの高さの岩の上から
川に飛び込んで泳いだり。

私は鼻から何度も水を飲みました(苦笑)

値段は一人90ドル。

Canopy Tourは木と木の間に張られたワイヤーのロープを
滑車を使って滑り降りるものです。

一番高い場所では22メートルの高さから滑っていき、
鳥の目で森林を見下ろせて最高に気持ちが良かったです。

値段は一人149ドル。

さて、三泊四日の下見の結論としては、
引っ越し先として最適とは思えませんでした。

理由は以下の四点です。

 

1.自分がスギとイネの花粉症であること

この花粉症は日本にいる時からなのですが
到着後15分ほどからくしゃみが止まらなくなりました。

初日で軽く100回以上くしゃみをして喉が痛くなり、
寝る時も鼻が詰まりなかなか寝付けず、
二日目の朝一番で薬局に駆け込みました。

薬を服用しだしたことで劇的にましにはなりましたが
それでもくしゃみは出続けたのでこれはとても住めないな、と。

オークランドに戻ってきて以来
花粉が飛んでいないので快適です(笑)

2.何もかもが観光地価格で割高であること

レストランではどこもオークランドでの料金より
3~5ドル割高でした。

割高なのに味は美味しいところが少なく、
高いお金を払ってあまりおいしくない料理を食べるのは…。

味は美味しくないのに
どの店もたくさんのお客さんでにぎわっていました。

おそらく人気観光地ということで、
味が良くなくても割高料金でもお客さんが入るのでしょう。

 

味が良いレストランももちろんあるのですが
そのようなお店は事前予約で満席で入店できなかったり、
持ち帰りの料理ですら一時間待ちだったりしました。

毎週木曜の夜に行われているナイトマーケットでは
観光地価格ではない通常価格で、味も良かったです。

3.市中心部にはレストランばかりで、
満腹になったらもうほぼすることがなく退屈

市の中心部は小さいレストランやカフェが無数にあり
どのお店にしようか迷うほどですが、
飲食店ばかりということは、
満腹になればすることがないんですよね…。

地元民になってしばらくして友達がたくさんできたら
<レストランで満腹→カフェで長時間お茶→
またレストランで食事して満腹→お茶>

の無限サイクルで楽しめるようになるのかもしれません。

4.アクティビティーをやりつくした後はすることがなさそう

アクティビティーは本当にたくさんあって、
週に一度一つのペースでアクティビティーをするとしたら
一年はかかると思います。

問題はアクティビティーの値段です。

かなりのアクティビティーが$100前後するので、
アクティビティーに一体いくらつぎ込めばいいのか分かりません。

しかし、同じく観光地として有名なTaupoという街が
80kmしか離れていないため
そっちにも行ったりできるので、
また違った楽しみ方があるのかもしれません。

Taupoのアクティビティーも
ネットで調べてみたところどれも高いですが…。

ちなみに、ロトルアの不動産価格はオークランドの3分の1です。

現在オークランドで家を買うとすれば100万ドルが相場なので、
ロトルアで家を買うと大体70万ドルを節約できる見積もりです。

「普通の事務職」で永住権を取得できるという事実

 

現在の私はオークランドの街中心部にある会社で
秘書として働いています。

雇用された当初のJob Title(肩書き)は
Reception and Administration Support
(受付兼事務補助)でした。

その後、移民弁護士のコンサルを受けた時に

「そのポジションから昇進の機会はありますか?
というのも、Secretary(秘書)だとニュージーランド政府の
技能職リストに載っているので、
秘書だと三年の業務経験の後にワークビザが申請可能になります。

あるいはその三年の間に
オンラインコースでDiploma of Businessを取得すると
スポンサーをしてくれる会社さえ見つかれば
三年後に自力での永住権取得が可能になります」

とアドバイスを受けました。

受付のキャリアパスとしては、

受付

個人付秘書(Personal Assistant)
あるいは重役付秘書(Executive Assistant)

秘書

というように昇進していくのだそうです。

学位を取るためには学校で授業を受けねばなりませんが、
物理的に学校に足を運び教室に座って授業を受けるとなると
三ヶ月以上通うことはワークビザだとできません。

ワークビザはあくまでも就労のためのビザであって、
学校に通うには原則的に学生ビザが必要なので、
学校に通える期間は三ヶ月以内に限られます。

しかし、オンラインコースであれば
自分の都合の良い時に勉強できるので、
学校に通った期間を厳密に計算することは不可能。

そのため、オンラインコースだと
ワークビザで受講しても問題がないそうです。

秘書の業務内容がどんなものかネットで調べたところ、
私がしている業務内容と似たようなものでした。

そこで、従業員をスポンサーしない方針である現在の勤務先に

「こういう事情があるので、
昇給を求めるわけではなくただ肩書きを変えて欲しい。
そしてお金が貯まり次第コースを受講して学位を取る」

と会社の上司と人事部長に相談したところ、

「スポンサーはできませんが、できるだけのことはします」

と言ってもらえて、Job Description(職務内容)はそのままに
何と肩書きだけ変えてもらえました。

人事部長からも

「あなたのJob Descriptionは秘書としての職務内容と言っても
おかしくない内容なので、職務内容はそのままにしておきます」

とのことでした。

「外国で永住権を取るなんて、事務職の自分には無理なのでは?」
と思っている人が多いかと思いますが、
実はニュージーランドでは秘書を始めとして
かなりの事務職が技能職とみなされています。

自分のこれまでの仕事や職位が技能職リストに入っているかは
移民局のこのページからチェックできますので、
ぜひ見てみてください。

案外、道は開けているかもしれません。

日本語教師になってみた



 

「『は』と『が』の違いは何ですか?」

「何で『よんふん』じゃなくて『よんぷん』なんですか?」

ワーキングホリデービザにてニュージーランドに渡って一月後、
日本語を教えた経験もなく、
日本語教師の資格もなしの私は
パートタイムの日本語教師として教壇に立っていました。

 

 

ニュージーランドにワーキングホリデービザで来て
すぐに仕事を探し始め、
「大学院で高度な日本語運用能力を身に付けたので
日本語を教える仕事ができるかもしれない」と思いつき、
オークランドの日本語コースがある語学学校に
手当たり次第メールで履歴書を送っていました。

そのうちの一校から返信があり面接に呼ばれ、
何とパートタイムの日本語教師として採用されました。

当時、その語学学校は開校したばかりの
新しい学校でした。

元英語教師として日本を含めた色んな国に住んだ経験がある
20代後半のニュージーランド人女性が校長で、
今度新しく日本語のコースを開設するので、
そのコースの日本語教師第一号になって欲しいとのことでした。

その当時は学校の生徒数がまだまだ少なく、
フルタイムで人を雇う余裕もなかったため
その校長が受付もしていました。

今は生徒数がかなり増え軌道に乗ってきたので、
フルタイムの従業員を二人雇い、
新しい教師募集の面接の際にも模擬授業をやらせたりと
かなり本格的になってきているようです。

私の時は校長が面接の仕方を良く分かっておらず、
ほぼ世間話をしただけで採用になったようなもので
模擬授業など一切ありませんでした。

というか、模擬授業があったら採用されなかったと思います(笑)

これも縁ですね。

お給料は60分の個別レッスンだと時給25ドルで、
90分授業でなぜか30ドルでした。

採用から数ヶ月経った後荷値上げ交渉をして時給27ドル
90分授業で32.5ドルとなりました。

【「いきなり先生」就任】

 

幸か不幸か日本語コースが私の採用と共に開講されたので、
生徒数が最初は一人でした。

一人だとその生徒に合わせて教えればいいので、
日本での塾講師経験すらない自分には幸運でした。

いきなり何人もの生徒相手に団体授業というのは
外国語としての日本語を知らない自分には
無理だったと思います。

その生徒は20代のニュージーランド人の男子大学生で、
JET Programを利用して英語教師として日本に滞在したいので
日本語を学んでいるとのことでした。

その数ヶ月前に友達と日本の北海道へ旅行に行き、
その際の滞在先のホストファミリーと仲良くなり、
日本が大好きになったのだとか。

その彼は日本語をそれまで全く学んだことがなかったというのも、
私には幸運でした。

一緒に一から学んでいけますから・・・。

私は日本人なので日本語を母語として話せますが、
第二言語として日本語を学ぶ人相手に理詰めで教えられるような
知識を持ち合わせていません。

例えば、なぜ「練習試合」を「れんしゅうしあい」ではなく
「れんしゅうじあい」と読むか、など。

日本語ネイティブは子供の時から日本語に囲まれて
大量に記憶して脳が勝手に規則性を見つけて
自然に法則を身に付けますが、
外国語として日本語を学ぶ人にはルールが分からなければ
なぜ「1分」が「いちふん」ではなく「いっぷん」なのかなど
分からないのですね。

日本人が英語を学ぶ際に
「英語の語順は主語、動詞、目的語」
「副詞は形容詞の前に置く」
「命令形は主語を抜いて原型の動詞から文を始める」など
運用のルールを学ばないといけないのと同じです。

【「いきなり先生」辞任騒ぎ】



 

最初は1人だった生徒が3人、4人と増えていき、
日本語コースを開講した翌年の一月、
爆発的に生徒が増え9人のクラス1つと6人のクラス2つを
教えることになりました。

生徒が1人や2、3人なら何とかなってきましたが、
9人となると飲み込みが早い生徒と遅い生徒がいたり、
また一番下の初級のクラスは5週間でしたが
5週間で上のクラスに上げても問題がない生徒と
10週間経っても上のクラスに上げられない生徒が出てきたりと
クラス運営がとても難しくなってきました。

かといって、日本語の教師は自分一人なので
周りの教師に助言を求めてみるも、
ドイツ語やイタリア語など似た系統の言語の教師は
ひらがなやカタカナ、漢字などを教える必要がないので
あまり参考にならず。

韓国語、中国語、アラビア語の教師は同じ時間帯に授業がないので
顔を合わせる機会がなく助言を得られませんでした。

校長に相談すると、スペイン語の教師がベテランなので
彼女から助言を得られるよう場を設けると言われたのですが、
二ヶ月経っても実現の兆しがありませんでした。

何時間もかけて授業の準備をしているのに
うまくいかない授業計画しか作ることができず、
教室で生徒の分からなさそうな顔を見ながら
毎週三回の授業をすることに耐えきれなくなりました。

ある日、校長にメールで

「経験も資格もない自分にはうまく授業が出来なくて、
生徒に申し訳ないため辞任したい。
後任が見つかるまでは続けるので、
出来るだけ早く後任を見つけて欲しい」

と伝えると、すぐに半泣きの校長から電話が来て慰留されました。

「あなたはとても良い先生だからやめないで!
本当にあなたが自分で言う通りのダメな先生なら
生徒はとっくに退学してるはず!
パートタイムの学校だから生徒はいつでも辞められるのに
それでも彼らが残ってるのはあなたの授業に満足してるからよ!」

と言われ、少し心が揺れたので一日考える時間をもらいました。

確かに欠席率が高かったとはいえ、
それまでの生徒でやめたのは一人だけだったし、
生徒は大半が社会人となると仕事も忙しいだろうし、
週1回1時間半のレッスンなので
単に面倒になりやすいというのもあるのかなとも思いました。

 

 

さらに冷静に考えてみると、
バナナファーム倉庫でのような人手仕事じゃない限り、
仕事に何らかの困難は絶対についてくるものだし、
プロでも不十分な環境でパフォーマンスをすることが多いだろう、
それでは今後いわゆるReal Jobに就いた際の練習になるのでは?
と思い直し、辞めずに続けることにしました。

結局、その騒動の後すぐにスペイン語の教師から研修を受けられ、
たくさんの役立つヒントを貰って
多人数の生徒の授業をこなせるようになっていきました。

【辞任騒動から学んだ文化の違い】

 

校長から引き止められた時に言われたことは、
私は何でも真剣に捉えすぎている、ということでした。

いくらプロであってもいつでも100%出来るわけじゃないし、
訓練を受けてないとか資格がないというのは本当だけど、
毎回学んでいってるじゃない!と。

よく考えてみれば、これが本当のOJTだったという・・・。

日本では上述の私のような状況になった時には
頑張るか、辞めるか、手の抜き方を覚えるか、ですが、
西欧圏には「不貞腐れる」というオプションがあるそうです。

自分に出来ることであればフォローをして挽回しようと
頑張ったり謝罪をしたりして何とかしようとするのですが、
フォローが不可能となると、不貞腐れて何もしないのだそうです。

「自分に出来ることはやった。
だから、今の状況は自分のせいじゃない」
と。

そして、そのまま平気で仕事を破綻させてしまうのだそうです。

私のアイルランド人の彼氏も、

「君は最善を尽くしてるんだから、
あとはもううまくいかなくても仕方ない。

自分のせいじゃないんだし、堂々としてたらいい。

授業がうまくいかないとか、色々と真剣に捉えすぎ。

その学校はフルタイムじゃなくてパートタイムなんだし、
学生ビザも出してないんだから、みんな気軽に来て、
何か楽しいアクティビティーでもして学んだ気になりたいんだよ。

本気で勉強したいなら多分フルタイムの学校に行くよ。

別に生徒の出席率が悪くても退学さえしてないんなら
生徒は在籍し続けることに文句はないわけで生徒はハッピー、
学校にお金が入り続けるわけだし学校はハッピー、
君もお給料が入るからハッピー。ほら!Win-win-win!」

…と、その時の私に以下のアドバイスをしてくれました。

これが西洋の仕事に対する考え方か、と。

その時点で海外に出て約二年半経ち、
あらかた西洋文化を知ったつもりでいましたが
毎日新しいことの勉強だと改めて感じました。

だから、この場合の私の対応は
「授業やってて上手くいかなくても、私のせいじゃない」と
傲然としておく、というのが何と正解だったようです。

日本人にはなかなか難しいですが・・・。

文句言われるかもしれないけど、
文句を言っている人も仕事に人格や能力をリンクさせないので、
そこまで気にしていないからこちらが気にする必要もないと。

 

 

【円満退社にて「いきなり先生」辞任】

 

結局、日本語教師は一年半続けたのですが、
やはりパートタイムで貯金をすることが困難だったので、
フルタイムの仕事が決まったことをきっかけに辞めました。

といっても、そのフルタイムの仕事は
校長が紹介してくれたおかげで決まったのですが・・・。

フルタイムの仕事を探していると話していた私に、
日系の会社がバイリンガルの日本人を探しているという話を
私に持ってきてくれたのです。

校長には本当に良くしてもらってばかりでした。

フルタイムの仕事が決まってからも
しばらくは掛け持ちで日本語教師の仕事も続けていたのですが、
新しい仕事が始まって二週間目に
色々あってその当時住んでいたシェアを追い出されることになり
バックパッカーに引越しか、
そうでなければホームレスになるかという状況になりました。

自分は仕事を始めたばかりで休みが取れず物件の見学に行けない、
彼氏は追い出されて気落ちしていて
動けずあてにならないという状態で、
私はストレスで発狂しそうになっていました。

そんな私の状況を知った校長が、何と

「私とパートナーは数日後から一か月間日本旅行でいないから、
その間行くところがないならタダで住んでいい。
どうせもともと誰も住まわせる予定がなかったから
家賃は自分たちで払うつもりだったし」

と申し出てくれました。

校長がその申し出をしてくれた時に
学校で話していたのですが、

「外国に住んでいると、家族から何も助けを得られないでしょう。
家族はとっても役に立つの。いっぱい助けてくれるし。
あそこにある教室にあるテーブルは、
私が子供の頃に夕食を食べていたテーブルなの。
私がこの学校を始めた時も家族はたくさん助けてくれた。
助けが必要だったら何でも言って。
あなたは家族なしで外国に住んでいて、それはとてもしんどいこと。
だから私が助けてあげる」

とニコニコと言われて、涙を堪えるのが大変でした。

その後すぐに授業があったので
泣いて顔をぐちゃぐちゃには出来ない、と思い
「ありがとう・・・」と絞り出した涙声でお礼を言うのが精一杯でした。

今でも思い出すと泣きそうになるのですが(笑)、
人ってここまでしてくれるんだ…と暖かかったです。

さすがに家賃は出すと申し出ましたし、
結局は新居が早く見つかったので
校長の家には滞在することはなかったんですが、
そうして助けを申し出てくれたことが嬉しかったです、

辞めることになった時も、
「後任の人が体調不良などで来れない時には
いつでも呼ぶから、まだこの学校の一員だから送別会はなしね!
あなたの最終日は永遠に来ないのよ!」
と言われ、
本当に人に恵まれた職場だったなと胸が温かくなりました。

今の自分があるのは、
その学校で仕事をしていたおかげだと思います。

スポンサーに移民局の監査が入ると

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私と彼はニュージーランドにワーキングホリデービザで渡り、
彼がワークビザを取り、私はそれに乗っかり
オープンワークビザ(Work Visa based on Partnership)
を持っています。

ワークビザを一度更新して、その後は永住権の申請を・・・と
考えていたのですが、予想外のことが起こりました。

【スポンサーがまさかの大炎上】

 

彼をスポンサーしている会社の副社長(トンガ人)が
社長(ニュージーランド人)に無断で
違法滞在のトンガ人を雇用し、給料を現金で支払っていました。

それが発覚し、移民局の監査がその会社に入ったのです。

移民弁護士の方に尋ねたところ、
監査が入っている間はその会社は黒とは決まった訳ではないが
かといって白でもない、という訳で
その間にその会社をスポンサーとして提出されたワークビザは
全て却下
されます、とのことでした。

さらに移民局の監査のスピードは遅いので、
監査が終わるには半年など、数ヶ月かかるだろうと。

彼のワークビザは来年の三月中旬で切れるので、
監査が始まった今年の六月頃から半年となると
その時点でビザの残りが三ヶ月。

監査の結果黒となったら
三ヶ月の間に次のスポンサーを見つけて
ビザの申請をしなければならず、時間の余裕がありません。

そんな短期間で転職活動が成功するかという
保証もありません。

ですので彼は「今転職するしかない」と考え
同じ現場で働いている同業他社の同僚に状況を話して回り
八月に二社からのオファーをもらいました。

ワークビザは会社にスポンサーをされなければならないのですが、
同じ地域で同じ職業であればスポンサーを変更できます。

例えば、彼の場合はオークランド地域でCarpenterなので
同じオークランド地域でCarpenterとして雇ってくれる
スポンサーを見つけることができれば、
新たなスポンサーからのサポートを元にワークビザを申請し、
転職できるのです。

【転職活動の結末】



 

オファーを早々に二つもらったことで
あっさり問題が解決かと思いきや、
何と彼が転職を渋り始めるという問題が発生しました。

彼が現在のスポンサーである会社の社長に電話を掛け
ニュージーランドに残りたい自分にはビザが必要なこと、
今まで雇ってくれて感謝していること、
残念だけど今の状況では転職するしかないことを伝えたところ、
社長がすっ飛んできて

「自分の会社は友人の会社に重役として合流するから、
スポンサー先はその友人の会社となる。
ビザの期限が切れる者から順次その友人の会社に移籍させるので
ビザ申請はそれで問題がないはずだ。
だからあと二ヶ月待ってくれ。
二ヶ月以内に移民局の監査も終わるはずだ。結果は必ず知らせる。
君の時給も3ドル上げよう」

と言われたらしいのです。

ニュージーランドに来てまもなかった自分を雇ってくれて、
色々良くしてもらっていたという恩があるので
彼は社長の言葉を信じて二ヶ月待つことにしたそうです。

現在のスポンサーの強い慰留を振り切って転職するのも
良いレファレンスがもらえなくなる可能性があるので
それはそれで危険である、という計算もありました。

十月になり二ヶ月が経ちましたが監査は終わらず、
同じ会社のアイルランド人の同僚が
スポンサーを変更せずワークビザの更新を申請したところ、
申請が却下されました。

「この雇用主はスポンサーとして問題がない」という
移民弁護士からの手紙を沿えれば問題ないはず、という
社長の判断を頼りに提出したそうなのですが、
効果はなかったようです。

移民局からその同僚には
「あなたに問題はありませんが、
あなたのスポンサーに問題がありますので
残念ながらあなたの申請を却下しました」
という
却下理由を記した手紙が送られてきました。

また同じ頃、それから溯ること一ヶ月前に
彼が移民局に行った問い合わせの回答が来ました。

彼は移民局に電話し
「自分の現在のスポンサーに問題があるかないかを
教えて欲しい」と電話にて問い合わせを行っていました。

その電話に応対した移民局のスタッフは
「そうして自主的に質問することはあなたを良く見せます。
あなたのスポンサーを今から私がデータベース上で調べてまとめ、
結果を約一ヶ月でお送りします」と回答してくれたそうです。

その結果がメールで彼に届いたのですが、
やはりその会社はスポンサーになれないことと、
その理由がかなり詳しく書いてありました。

一旦は転職を保留にした彼も、
こうしてついに転職を決意するに至りました。

そして彼は現在のスポンサーに
「二週間後に退職します」とようやく届け出たのですが、
何と次のスポンサーの当てがない状態で
退職の通知を行ってしまいました…。

なぜ二週間かというと、契約書で
「退職の際には二週間以上前に書面での通知を行うこと」と
定められていたからです。

二か月前にオファーを二件もらっていたとはいえ、
そのオファーがまだ有効かどうかは不明。

次の当てもなく退職の通知を行った理由は
「そうするのが正しいと思えたから」と単に直感とのこと。

意気揚々とした彼からの報告を仕事中に受けた私は
「それは、二週間以内に新しいスポンサーが決まらなければ
国外退去ということなのでは?」
と不安を覚えていました。

【重すぎるプレッシャーに…】

 

金曜日に意気揚々と退職を届け出たかと思いきや、
彼はその翌日の土曜日から火曜日まで
「次のスポンサーが見つからなかったらどうしよう」と欝になり
ほぼ何も食べずベッドからほぼ動けなくなってしまいました。

彼のワークビザに私も事実婚の配偶者として付属しているので、
自分一人だけではなく二人の人生がかかっている、と考えると
それがとてつもない重圧となってしまったようです。

緊張と落ち込みで食欲を失った彼は
四日間でバナナを四本しか食べることができず、
スマートフォンで気を紛らわせるために
自分の好きなラジオを一日中流してそれを聞いているだけでした。

たまに上半身を起こしたかと思えば、
胃痛を和らげるために牛乳を飲むためでした。

寝室を出るのはトイレと喫煙の時だけ。

月曜日と火曜日は本来なら仕事でしたが、
病気休暇を取ってそんな状態で家にいました。

私はそんな彼の世話をしつつ、
「自分も二週間以内に国外退去かもしれない」
「今の借家の契約をどうするか」
「万が一のため職場に状況を伝えて辞職の手続きに入るべきか」

などと考えストレスを貯めていました。

 

 

結局彼は水曜に出勤し、
現場で以前オファーをくれた人と話をし、
以前のオファーがまだ生きていたようで
次のスポンサーが無事に見つかりました。

 

 

【今後の手続き】

 

今後、彼は新しいスポンサーが用意した書類を移民局に提出し
ワークビザ(Work Visa – employment specific)切り替えの
申請を移民局に行います。

彼のように転職でスポンサーを切り替えると
申請期間中に彼の現在のワークビザが切れた後は
Interim Visaに切り替わり、Visitorの条件になるので
ニュージーランドに滞在はできるのですが
労働の権利がありません。

ビザが切れるのは来年の三月で、
前回のビザ申請時には二週間で審査が終わったので
Interim Visaに切り替わることはないかと思いますが・・・。

私は前回の申請時に持病を申告して審査に三ヶ月かかったため
審査にかかる日数が長引くことが予想されるのですが、
私のようにWork Visa (open)から
Work Visa (open – same kind of open visa)に切り替える場合は
Interim Visaの条件がWork (open)なので
変わらず働き続けることができます。

前回の私のワークビザ申請時には
Work Visa (open – working holiday visa)から
Work Visa (open – based on partnership)だったので
審査期間中にワーホリビザが切れInterim Visaに切り替わり、
Interim Visaの条件がVisitor状態になり
三ヶ月働けず貯金が減る一方という悲惨な状態になりました。

持病といっても継続的な治療は必要がない状態で
日本で六年ほど前に治療を受けたのが最後なので、
今回は移民弁護士の助言に従い日本でのかかりつけ医に
「現在治療は必要ない状態」と英文の手紙を書いてもらったので
それを申請書と共に提出する予定です。

持病がある申請者に対しては、移民局は
「この人物をニュージーランドに滞在させると
医療費がどれほどかかるのか?」という観点で審査を行う
そうです。

したがって、持病がある申請者については
移民局から独立した機関にいるスペシャリストに
意見を求めるのだそうです。

しかし申請者の数が多く現在その機関はパンクしていて
そこに送られたが最後、待機期間は半年以上なのだとか・・・。

つまり専門医からの意見を待つから
持病がある申請者には審査の時間が長くかかるのであって、
自分のかかりつけ医から意見を提出してもらえば
その機関に送られる必要がなくなり審査の速度が速まると。

健康診断の結果提出は、申請時から三年以内に
ニュージーランド政府に提出していたのであれば
再提出は不要です。

ですので今回は私は健康診断結果の提出が不要なため、
独立機関のアドバイス待ちで
再度数ヶ月も待たされるということにはないとは思うのですが
念のため。

ビザの更新が無事終わったら、また顛末を報告しようと思います。

海外避難生活の裏側

 

財布に2ドル入っていれば余裕を感じ、
9年間大切に履き続けてきた靴を一ヶ月で履き潰した・・・

オーストラリアにワーキングホリデーで渡ってから二ヶ月、
私はシドニーで赤貧の日々を送っていました。

【衣食住に困らなかった日本での日々】


日本での私は実家で暮らしていた大学院生で、
衣食住には困らない生活を送っていました。

大学院生だったためバイト代は全て自分のお小遣いとして
研究のための文献の購入や学会費の支払い、
また外食やお茶代、洋服などに充てていました。

その当時の自分にとっては「お金がない」というのは
それらのお金がないというだけであって、
衣食住に困るという意味ではありませんでした。

両親の持ち家に住まわせてもらい
毎日母親が三食を作ってくれて、
洋服はたくさんは買えませんでしたが
外出の時に着ていく服がないということはありませんでした。

 

生活費を自分で出したことがなかった私は、
29歳にしてお金の使い方を良く知りませんでした。

世の荒波に揉まれたことのない、世間知らずでした。

【元箱入り娘が過ごした赤貧の日々】


オーストラリアでは住宅費が高いので
他人とアパートの部屋や一軒家をシェアして暮らすのが
普通です。

オーストラリアに到着してから
私もすぐにシェアで暮らし始めたのですが、
そのシェアは何と門限がありました。

60代の研究者の女性だったシェアのオーナーからの、
夜は早くに寝たいので22時までに帰ってきて欲しい、
という理由で。

この門限は見学の時に説明を受けていたのですが、
英語力が低かった自分は分かったふりをしてしまい、
入居してから気づいたという体たらくでした。

それでも、実家でも門限が23時だったので
「何とかなるだろう」と楽観的に考えていましたが、
これが赤貧の日々の幕開けでした。

【バイトが見つからず苦戦】

23時が門限だった実家住まいだった時も
問題なくバイトは見つけられていたので
22時でも何とかなるだろうとたかをくくっていました。

 

しかしいざ仕事を探し始めると、
語学学校にフルタイムで通うので昼間は働けない、
手に職もなく英語もできない、
同一の雇用主の元で半年しか働けないビザの自分は
日本人経営の日本食レストランでしか
働き口がない
ことが分かりました。

そしてレストランだと22時や23時に閉店するので
門限が22時だと雇ってもらえないか、
雇ってもらえてもあまりシフトに入れてもらえませんでした。

さらに悪いことに、
日本食レストランは法定最低賃金を払わず
当時のNSW州の法定最低時給15ドルに遥か満たない
10ドルの時給しか払わない所ばかりです。

「英語もろくにできない短期ビザ保持者を
雇ってやるのだから」と。

私が働いた数件の日本食レストランも例外ではなく、
説明もなしに「研修期間は時給8ドル」と言われ
一ヶ月ほど8ドルの時給で働きました。

どんなに安くても、働かないよりは少しでも収入があるので・・・。

時給8ドルや10ドルで、しかもあまりシフトに入れてもらえず、
手持ちのお金がどんどん減っていきました。

オーストラリアに到着してから一ヶ月ほどで貯金が底をつき、
私のエージェントをしていただいていた田村さん
借用書を書いて700ドルを借りるということもしました。

 

この頃は財布に2ドル入っていたら余裕を感じるほどで、
スーパーで買い物をする際には
セント単位でお金を計算しながら買い物をしていました。

日本では実家住まいなことに甘えて料理もしたことがなかったので
作れる料理のレパートリーも貧しく、
またどの食材をどう調理していいか分からず、
最初の二ヶ月はお肉を一切食べずに
玉ねぎと人参とパプリカと白米ばかり食べていて
7キロも太ってしまいました(笑)

こちらでは仕事を探す時には自分から働きたい場所に
履歴書を配って回るのが普通なので
「日本食レストラン以外の仕事を見つけよう!」と
頑張って週末の度に履歴書を配っていましたが
一か月の間に80枚は配ったのに面接にすら呼ばれませんでした

そうこうしているうちについに借金までしたお金も尽き、
家賃150ドルの支払いができなくなり、
残りの有り金87ドルのうち63ドルをオーナーに渡し、
「150ドル÷7日で一日約21ドル、
すみませんがお金がないのであと3日でここを出ます」と告げ
23ドルを持ってそのシェアを出ました。

【29歳にして門限がない自由を初体験】

 

引っ越し先はRozelleというサバーブにある
Balmain Backpackersというバックパッカーでした。

その当時、そこは初めての宿泊の人に
10日間まで一泊10ドルという破格のキャンペーン中だったからです。

しかもシェアと違い商業施設なので
日本から持ってきたクレジットカードで宿泊費の支払いができるため
「これで門限がなくなるのでたくさん働ける。
カードの支払期限までにお金を稼いで
日本の自分の口座に国際送金すればいい」と考えていました。

しかし、今まで閉店作業をしたことがなかったバイトを
いきなり閉店時間までシフトを入れてくれるかというと
当然そんなことはなく、結局シフトはそんなに増えず
カードの支払期限が迫ってきました。

結局親に頭を下げて日本の自分の口座に
お金を送金してもらい、
レントの支払いや食料品、日用品の購入をカードで行い、
自分が稼いだドルは手元に置いておくことにしました。

「もう日本には一生帰らない」と啖呵を切って出たのに、
わずか二ヵ月後には親にお金の送金を頼むとは・・・と
恥ずかしく情けない気持ちでいっぱいになりました。

【救世主の登場】

学校が終わってからバッパーに引っ越して初日の夕方、
駐車場の近くにあるソファーに座ってボーっとしていると
異様に感じのいいアイルランド人男性が話しかけてきました。

結果から言うと彼が私の現在の配偶者(事実婚)で、
事情を知った彼が材料費も彼持ちで夕飯を毎晩作ってくれ、
お金がなくて遊びに出かけたことがないという自分を
全て奢りで遊びに連れ出してくれたりしてもらう内に仲良くなり、
初めて会った日から二週間で付き合うことになりました。

買い食いも、カフェやレストランでの飲食も
赤貧状態でこの二ヶ月間したことがなかった私には
救世主のような存在でした(笑)

日本食レストランでの仕事しかできないと、
違法低賃金なので貯金をするのがかなり難しいです。

普通なら飲食業で働くと賄いで食費が浮きますが、
日本食レストランでは
出される賄いに東日本製の食材や調味料が使われており
私は賄いを食べられなかったので
賄いによる食費の節約が出来ないという要素もありました。

また、賄いを食べられないと
他の従業員から奇異の目で見られたりして
馴染むことができないという辛さもありました。

【熱帯地方で「細腕繁盛記」】

 

彼と出会ってから二か月ほど経った2011年の10月、
一年目のワーキングホリデービザが2012年3月で切れる彼が
二年目のビザを取るために季節労働へと旅立ちました。

オーストラリアのワーキングホリデービザは
政府が指定する田舎の地域で農場での労働などの
季節労働に13週間または88日間従事すると
もう一年延長することができるからです。

彼は友達のツテを辿り
クイーンズランド州北部の熱帯地方にある
Innisfailというバナナ農場がたくさんある町に行き、
私も彼が旅立った一か月ほど後に同じ町に行きました。

Innisfailでは彼と私は
ワーキングホステルに滞在していました。

ワーキングホステルとはバックパッカーなのですが、
チェックインの際に「仕事を斡旋してほしい」と伝えると
順番待ちのリストに入れてもらえて、
順番が早い人から仕事に空きが出た時に仕事がもらえます。

その町には複数のバナナファームがあり、
それらのファームから求人が出ると
ワーキングホステルに連絡が行き、
ホステルがそこに宿泊している人を斡旋していました。

その町は私達が滞在する二年前に
ハリケーンにより損害を受けていて、
それ以来不作が続いていました。

不作であるということは仕事が少ないということで、
私が到着した時点で彼は一か月間順番を待っていました。

 

また、その町のバックパッカーの宿泊費はどこも異常に高く、
一か月間働けずにいた彼の貯金はすぐに底をついていました。

私が到着した翌日に彼は仕事をもらえたのですが、
私もやはり一か月仕事がない状態でした。

待機期間も宿泊費、食費、雑費がかかるので、
仕事をもらうまでに時間がかかりそうなら
本当はさっさと違う町に移動した方が良いです。

しかし、彼と将来事実婚をしようと約束していた私には
別居の選択肢がなかったので
同じ所に滞在することにしました。

ようやく仕事をもらえた彼と私でしたが、
彼が派遣されていたバナナ農場は仕事が少なく、
週5日働けることは稀でした。

私が派遣されていたバナナ農場は仕事が比較的あり、
基本的に毎週5日間働けていました。

 

上述の通り、その町のバックパッカー宿泊費は高額だったので
彼は宿泊費しか払えないような状態で
私がその他の食費や雑費を二人分出す日々が始まりました。

時には、彼が宿泊費すらも払えないような週もありました。

彼をそうして少し養う傍らコツコツと貯金をし、
田村さんからの借金も少しずつ返していき完済しました。

この町に滞在している間、
国の福祉が充実しているので貯金をする習慣がない国出身の彼とは
金銭感覚の違いで何度も激しい喧嘩をしました。

彼が日本語を一切話せないので
私はずっと英語を話さなければならず、
感情的になった時には特に英語がつっかえる自分に対して
私が話し終わるのを待たずに
母語で自分の主張をスラスラと言う彼に追い詰められ、
気が狂いそうになり泣き叫びながら日本語で怒鳴り返して
過呼吸になったことも一度ありました。

そんな様子の私を始めて見た彼は慌てふためき
震える私の口にビニール袋当てて介抱してくれましたが、
私は内心妙に冷静で
「体の調子が少し悪いからと病院に行って
『余命一か月です』といきなり宣告されたら多分こんな感じ」
と頭のどこかで面白がっていました(笑)

そうこうしているうちに13週間の終わりが見え始め、
私の仕事も週4、3とだんだん減ってきていたので
ちょうど13週間でバナナ農場の仕事を辞めることにしました。

その後は彼がすぐに仕事を得られるツテがあった
シドニーに戻りました。

【再びシドニーで赤貧の日々】

 

彼は彼の幼馴染が指揮を執っている
電気会社のセールスの仕事を得て、すぐに働き始めました。

私は履歴書を毎日配り歩くも、
音沙汰がない日々が続いていました。

そのセールスの仕事は基本給がなく出来高制で、
セールスの仕事が苦手な彼には
とても低いお給料しか支払われませんでした。

それでも彼は仕事が見つからない私を養うために
毎日頑張って仕事に行ってくれていたのですが、
ある日「仕事に行けない…」と言って
動けなくなってしまいました。

頭では仕事に行かないと、と思っているのに
体が言うことを聞かない状態でした。

私はといえば日本食レストランではもう働きたくないという
我儘を通し彼に養っていてもらっていたので、
その時の二人合わせての貯金が450ドルほどでした。

結局、出社拒否になってから三日目に
以前働いていた会社から仕事のオファーがあり
無事にセールスの仕事を収入の心配がなく辞められました。

私はシドニーに戻ってきてから履歴書を再び配っていたものの
前回のシドニー滞在分と合わせて200件以上配っても
やはり何の音沙汰もなく毎日落胆していました

そして鬱々と過ごしていたある日、
「今の状況から自分は何か学ぶことがあるから
神の采配か何かで仕事がないのだろうか?
もし自分に仕事とお金があったら今頃どうしているだろう?」

とふと考えることがありました。

そうして考えを巡らせてみると、
「正直、今の私はお金がないから彼の元を飛び出さないだけで、
おそらくお金があったら、とっくに彼と別れて別の街にいるだろう。
それでは、今の状況はお金を得ても彼と別れてはいけない、
彼と人生を共にする腹を括れというお告げかもしれない」
という
結論が自分の中で出てきました。

そこから「彼とは金銭感覚や文化、言葉の違いで苦労するものの
不器用だけどまっすぐな愛情をくれる人で、
彼が私の運命の人なのかもしれない。腹を括ってみよう」と思い
仕事と収入を得ても彼と別れない決意をした翌日に
何と三件もの仕事が同時に降ってきました。

一つ目は日本総領事館での在外選挙の短期バイト、
二つ目は清掃員の仕事、
三つ目は倉庫での梱包作業の仕事でした。

 

結局、倉庫での仕事を選び、
そこでは気のいい同僚に恵まれ毎日楽しく働くことができました。

収入は高くはなかったですが
彼に養ってもらう必要がなくなり、
自活でき貯金もできるようになりました。

【元箱入り娘の叩き上げの原動力とは?】

 

私は不器用で要領が悪いですが、
失敗から学べるという強みがあります。

貧乏だった期間では、
そもそもお金がなぜ必要なのかということを考え、
お金との付き合い方を学び、その学びを徹底的に実践しました。

問題や事象に真摯に向き合って本質を掴み、
他の問題に応用するというのは
私が大学院で得た知的技術です。

 

この知的技術こそが私をして原発事故後の日本政府を疑わせ、
放射性物質の危険性にいち早く気づかせてくれました。

知的技術を駆使して出した自分の結論を信頼できたからこそ、
親の葬式以外は日本の土をもう踏まないのだと腹を括れて
最初は知り合いすらいなかった外国で泥臭く踏ん張れました。

最初は日本食レストランでの仕事しかできなかった私ですが、
たくさんの失敗をして学んでいった結果、
時間はかかりましたが渡豪一年後にはローカルの仕事ができ、
ニュージーランドに移ってからはバリスタの仕事をやり、
日本語教師の仕事をやり、
そのツテで今では日系企業で秘書をしています。

仕事探しで度々苦労して「手に職さえあれば」と
数えきれないほど悔やんだ反面、
知的技術は咀嚼され私の血肉になっていて
それこそが私の「手に職」以上のスキルであり、
あるいはスキル以上のものなのだと今では考えています。

命をかけた人生最大の賭け

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気がつくとある日、右腕にいつまでも治らない湿疹ができていた。

薬を飲んでも病気の治りが遅くなった。

自律神経失調症で元々体調が悪かったものの、
極端に調子が悪くなり、起き上がれないほどになった。

これらは福島第一原発事故が起きてから半年後、
ずっと関西に住んでいた私の体に起きた異変です。

 

 

2011年3月11日に東日本大震災が起こり、
それに伴い福島第一原発事故が起きました。

関西では停電することもなく、水道やガスが止まることもなく
何も変わらない一日。

増え続ける死者や行方不明者の数をニュースで見ながらも、
家族、親類、友人、恋人すべてが関西の私には
正直遠い世界の話のようでした。

【半年後に起き始めた不可思議な身体症状】

何も気にせずに日常生活を送っていたある日、
右腕の小さい湿疹がいつまでも治らないことに気づきました。

湿疹というにはとても小さく、見た目には分からないのですが
触るとざらざらした感触が分かるものでした。

痒みも痛みもないので、そのうち治るだろうと
皮膚科にも行かずに放置していたのですが
三ヶ月ほど治らずにいました。

そのうち膀胱炎になり、薬を飲んでもなかなか治らず、
かかっていた医師も首を傾げていました。

 

何とか上記の状態から回復してしばらくすると、
それまで4年ほど患っていた自律神経失調症が
極端に悪化しました。

それまでも睡眠不足やストレスがあると悪化していましたが、
その時は特に悪化する要因もなかったのに
一日に一口ほどしかものを食べられず、
ほとんど起き上がれない状態になってしまいました。

【自分が被爆していたかもしれないという恐怖】

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起き上がれない状態のまま何気なくTwitterを開いていると、
私がフォローしていた東大の島薗進先生が
内部被爆の危険性を述べたツイートを投稿しておられました。

そこで「まさか・・・」と思いスマホで少し調べると、
チェルノブイリでは長期間の低線量被爆により
健康被害が発生した
という記事を見つけました。

 

長期間の=この半年間の
低線量被爆=関西での無頓着な飲食

 

と即座に結びつき、
「まさか・・・」とスマホを持っていた指先が冷たくなり
ショックで一瞬軽い貧血のようになりました。

「体調不良の今は、怖くて直視できない。健康になってから見よう」と思い、
それから漢方薬を飲んで何とか回復した一週間後に
ネットで検索して自分なりに色々と調べてみました。

それで調べて得た知識から、
自分のそれまでの半年間の不思議な身体症状は
内部被爆に由来していたのかもしれないと考えるに至りました。

膀胱炎も、排尿の際に尿道をセシウムが傷つけて起こるという
チェルノブイリではとてもありふれた病気だったそうです。

【自分の身体での実験とその結果】

 
そこで実験をしようと、そこから食材の産地を徹底的に選び、
生鮮食品も加工品も西日本の物のみに。

幸いにも関西に住んでいたので
近くの食料品店に売っている生鮮食品は西日本産ばかりでした。

加工品は西日本産のみの原料で加工も西日本となると
なかなか見つけるのが難しかったですが…。

 

 

その実験を始めてから一ヶ月すると右腕の湿疹が消え、
自律神経失調症の症状も安定してくるようになりました。

この実験により、私の身体症状は内部被爆に由来していたと
確度の高い仮説を得られました。

【周囲の理解を得られない戦い】

 

一度気になりだすと止まらなくなり、自分の健康にも関わるので
大学院での自分の研究を放り出して調べ始めました。

 

 

実家に住んでいた私は、気になり始めてすぐに
家中の加工食品の産地と製造地を確認し始めました。

私がシチューのルウのパッケージを台所で一つ一つ見ていると、
それを見た父に指を差され「アホや」と大笑いされたことは
今でも忘れられません。

 

近所の小さいスーパーで安全な加工食品を求めて
1時間もかけて買い物をしたこともありました。

 

 

大学院の恩師は「愛知県東部まで危ない」という私を
「そこが危ないんだったら関西も危ないことになる」と笑い
同僚は「福島に行かないのなら別に気にしなくても」と
呆れた顔
をしていました。

同い年で仲が良かった優秀な同僚は東京出身で、
東京が危ないという私を
「あなたは西日本出身だからそんなことが言えるんだ。
他人の故郷が汚染されていると言うなんて失礼だ」と
責めました

「他人の故郷が汚染されていると言うなんて失礼」ならば、
危険と分かっているのに何も言わずに見殺しにする方が
親しい友に対して礼儀を欠いているのでは?と思われましたが
本当に周りの誰一人として私に賛同してくれなかったので
「おかしいのは自分なのかもしれない」と思い
下を向いて黙っていました。

当時付き合っていた、結婚を前提にして付き合っていた恋人とも
放射能の危険性に対する見解の相違から別れました。

彼もまた東京出身で、
同僚と同じように東京が危険だという私と意見が一致せず、
将来が見えなくなったからです。

「仕事のためなら健康は犠牲になってもいい。
福島は無理だが、東北になら赴任してもいい」という
彼の価値観には賛同できませんでした。

私の父は私が小さい頃に脳梗塞を起こし、
それ以来右半身が麻痺して病弱になりました。

利き手で文字が書けなくなり、呂律がうまく回らなくなり、
走れなくなり、雨の日は常に右半身が痛み、体力は低下し、
働き盛りの年齢なのに週5日の仕事を
できる体力がなくなってしまいました。

「身体さえ健康だったら」と
いつも悔しがっていた父を見ながら育った
私には
健康を害するかもしれない選択肢を取ることは
できませんでした。

しかし、この彼と付き合っていた時に彼が私に話していた、
オーストラリアのワーキングホリデーに行った彼の友達の話が
結果的に私の運命を変えることになりました。

 

 

【国外避難を決意するまで】

 

食品の汚染が気になりだすと物品の汚染も気になりだし、
調べていくうちに産地や製造地が安全な地域でも
物流の際の経由地や保管場所が危険な地域だったりすることが
分かりました。

食品も物品も気にし始めると、
全ての安全なものを入手することは
西日本であっても難しいか、手間がかかります。

大気も、物流が制限されていないため
一般人が持ち込んだ東日本のゴミが焼却されているし、
季節や風向きによっては福島から風が吹きます。

 

 

外食も限られたお店にしか行けません。

付き合いもあるし、
いつも安全な外食のお店に行けるとも限りません。

行けない場合の方が多いでしょう。

かといって、自律神経失調症でいつも体調が悪く
英語も話せない自分は海外になんて行けないだろう、
大学院留学しかないだろうか、
しかし大学院留学できるほどの能力もない・・・と思い
悶々とした毎日を送っていました。

そんな時、上述の彼と付き合っていた時に聞いた
オーストラリアのワーキングホリデーの話をふと思い出し、
調べてみると私はそのビザを取れることが分かりました。

申請時に29歳以下の日本国籍保持者でさえあれば
働く権利のあるビザが一年もらえて、
オーストラリア政府の定める田舎の地域で
三ヶ月の季節労働をすれば更に一年の合計二年滞在できる、
というお金も手に職もない自分には夢のようなビザ
でした。

ビザの申請はオンラインでできるので早速申請し、
申請からたった二日でビザが降りました。

それでも外国に一人で乗り込むのは勇気がいるので
まずは情報収集を、と思いネットを見ていると
APLaCのページを見つけました。

そこにある過去のエッセイ
APLaCにこれまでお世話になった人の体験談を読み
「この人に頼んだら大丈夫そうだ」と確信してメールを送り、
5月下旬に一括パックの申し込みをしました。

【決意をしてから実際に渡豪するまで】

 

ビザを申請したのが2012年1月3日、
ビザが認可されたのが2012年1月5日、
渡豪したのが2012年5月26日でした。

身体症状が出始めてから7ヶ月、
決意してからおよそ4ヶ月弱で日本から出た計算
 です。

決意してビザを取ったにしても貯金がとにかくなく、
到着当初の資金を貯めなければ、ということで
派遣社員で三ヶ月だけ仕事をしてお金を貯めました。

 

 

一点の迷いもなく着々と日本脱出に向けて準備をしていましたが
それでもふと日本を出ることが怖くなり、
考え出すと全身が小さく震えだすことがありました。

 

英語がろくに話せないのに生きていけるだろうか?
手に職がない自分にどんな仕事ができるだろうか?
たかだか50万円もない貯金が尽きたらどうする?
知り合いすら一人もいない外国でやっていけるのか?
永住権だって取れるとは限らない、取れなければどうする?・・・

 

そんな時はいつも
「論理的に考えて、もう日本を出る以外に
自分が生きられる道はない。このビザに賭けるしかないんだ」

と自分を説得し、奮い立たせていました。

 

不慣れな仕事で忙しく働きつつ貯金をしていると、
あっという間に出発日になりました。

 

 

【オーストラリアに到着してから】

 

オーストラリアに着いてからは、最低時給が15ドルなのに
10ドルしか払わない日本食レストランでしか仕事を貰えず、
とても貧乏でした。

日本食レストランのウエイトレス以外の仕事にありつこうと、
履歴書を一年間配り歩いてかれこそ200枚配ったのに
面接にすら一件も呼ばれず、金銭的に辛い日々を過ごしました。

「親のお金で博士課程にまで行かせてもらったのに、
一体自分はこんな遠い外国まで来て何をやっているんだろう?」
と何度も考えました。

それでも、どんなに裕福であっても成功していても
健康さえなければ全てが水の泡である、という価値観の私は
綺麗な空気を吸えることに感謝していました。

貧乏で外食ができなくても
スーパーで安全な食材を買えることに喜んでいました。

 

「オーストラリアで永住権が取れなくても
29歳の自分は30歳までに申請すれば
ニュージーランドのワーキングホリデービザも取れるから
南半球で二年間半くらい過ごせるし、
永住権が取れなくともせめて良い保養になるだろう」と。

学業、キャリア、家族、恋人、友人、故郷、健康、
どれも大事ですが、それでもなお優先順位をつけて
行動に出ることができた自分を誇らしく思います。

何かを得るためには何かを失わないといけないのですが、
それを仕方のないことだと割り切れる強さが
自分の長所かもしれません。

海外移住に英語力はどれほど必要か?

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英語圏に移住したい!と思っても、
「英語ができないし・・・」と言葉の壁でためらってしまう人は
多いのではないでしょうか?

実際に移住をして得た四年半弱の経験から
どれくらいの英語力が必要かと考えてみると、
「できればできるほど良い」という身も蓋もない答えになります。

日本国内で日本語ができない人間に何ができるか、と考えてみると
色んなことに制限がかかるのが想像できるかと思います。

たとえば、日本にどこか外国からの留学生が来て、
日本語は文字は読めるけど話せるのは挨拶くらい、
聞き取りはほとんど無理・・・という場合、
その人は日本国内で一体どんな職に就けるのか?と。

親が裕福で働かなくても良いくらい送金してもらえたり、
貯金がたくさんある、という人もいるでしょうが、
永住ベースの移住を目指すならば送金も貯金も
自分が死ぬまで続く訳ではない人が大半かと思います。

あるいは、株の配当や不動産からの収入がある、など
日本国内からの継続的な所得が見込めるならば話は別ですが、
どこかの段階で移住先の国で働いてお金を稼がないといけなくなる、
という人は英語ができるに越したことはありません。

お金があれば必要な時に通訳や翻訳を雇えばよいですが、
それでも万が一犯罪に遭ったり体調が急激に悪くなったりと
咄嗟の助けを求める必要がある時に、
やはり現地の言葉を話せないと危機管理として不安という面もあります。

私は日本にいる時にIELTSのアカデミックで6点あったので
ここで紹介するのはそのレベルでの勉強方法となりますが、
私はGyaoというサイトでSex and the cityという海外のドラマを
日本語字幕付きで一日一本見ていました。

あとはデスノートという漫画が好きで、
日本語で漫画を読みアニメも見ていて内容を知っていたので、
アニメの英語吹き替え版をYoutubeで見ていました。

最初は三割くらいしかわかりませんでしたが内容を知っているし、
好きなので理解したくて辞書を引きながら何度も見ているうちに
わかるようになってきました。

もちろん、ドラマや映画を見ている時にも、
分からない表現があったら辞書を引いて調べる必要があります。

最初はBBCなどのニュースをポッドキャストで聞いて
リスニングの勉強をしようと思ったのですが興味が続かず(笑)

とにかく英語の勉強なしに好きだと思える作品を見つけるのがコツです。
好きじゃないと毎日続けるのが私の場合は難しかったので…。

とはいえ、映画やドラマでも英語の勉強にはなりますが、
やはり机に向かって勉強する時間もなければ英語力は伸びないので、
おそらく時間が一番ある渡航前に
できるだけ英語を勉強しておくのが良いと思います。

渡航したら、住居探しや学校探しなど、
こちらの生活に慣れるまでバタバタするので
机に向かえる時間がしばらくの間なくなってしまいますから。

こう書くと矛盾するかもしれませんが、
英語ができなくても移住をして、人の温かさに触れて感動して
幸せを感じることが可能である
ことも強調しておきます。

例えば、シェア住居探しの時など、英語ができない人の方が
いいシェアに当たったりします。

英語ができない状態でシェア探しをやっていくと
英語ができない人の言うことに一生懸命耳を傾けてくれる人しか残らないので、
必然的にいい人だけが残るという。

英語が不得意な人が問い合わせの電話を掛けてきたら
ガチャ切りするような人は(数は少ないですがそういう人もいます)
英語が不得意な人の引越し候補先にならないのですが
一方で英語ができる人が問い合わせをすると普通に対応されてしまうので、
「いい人なのかな~」と思って引っ越したら
引っ越した後に「嫌な人だった・・・」と分かるケースなんかが実際あります(笑)

被爆を気にする人が潔癖症に見える理由とは?

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私を含め、いわゆる「放射脳」の人達は東日本由来の物を徹底的に避けます。

しかし、日本にいる限りいくら気をつけても避け切れないし、
海外に出たとしても私のように日系の会社で働いていると
避け切れません。

「放射脳」の人達が日本または海外でも日本に関連する職場で困るのが
東日本からの郵便物や出版物
です。

現在私はニュージーランドに住んでいますが、
日系の会社で働いているため
仕事上毎朝日本からの郵便物を開封して配らなければならず、
塵が自分の服などに付着しないように
なるべく自分の体から離してそっと開封しています。

配り終えたらすぐに石鹸で手を念入りに洗うか、
それができなければ机の上に常備しているウェットティッシュで拭き、
郵便物が置いてあったのが自分の机ならそこも丁寧に拭きます。

オセアニア地域への郵便はFedEx等の外資系でない限り
全て東京経由で送られてくる
からです。

日本の本や雑誌なんかも、日本の出版社は東京に一極集中なので
もう全て避けています。

本を買いたければ電子書籍版を買うか、
電子書籍版がなければAmazonで本を買い、
いわゆる「自炊業者」を送り先に指定して
本を裁断してスキャンしてPDFデータにして
送ってもらえるサービスを利用しています。

というわけで、職場での私は頻繁に机や手を拭いているので
完全に潔癖症の人のような目で見られています(笑)

しかし他人の目よりも被爆防止のほうが大事なので
何も気にせず今日もせっせと手や机を拭き続けています。

原発事故後五年半経っても声を上げ続けられる秘訣

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早いもので、福島第一原発事故が起こってから約五年半が経過しました。

事故当初から半年間は、放射線に関する知識も何もなかった私は
全く気にせず何でも食べて過ごしていました。

幸いにも関西から出る機会がなかったので、
呼気被爆は相当防げました。

半年経つと原因不明の湿疹のようなものが腕の皮膚に現れだし、
免疫力が下がっていないと出ない病気にかかりました。

それで、「もしかして」と思い至り調べてみるうちに
「放射能が原因なのでは?」という結論に達し、
それから数ヶ月は、全然放射能を気にしない周りの人を心配して
「危ない」「気にした方がいい」と訴えかけていました。

しかし、そうすると理解してもらえなかっただけではなく、
気がおかしくなってしまったような扱いをされたりしました。

自分と近い人達だからこそ心配してつい口に出してしまうのですが・・・。

ほとんどの場合はカルト宗教にはまった人のような扱いを受け、
良くて神経質な人扱いをされるだけだったので
私はそのうち口を噤むようになりました。

自分がどんなに言っても相手の考えは変えられないし、
変人扱いされたり嫌われたり攻撃されるだけ。

どうせ変わらないのが同じなら、
何も言わない方が嫌われないし攻撃されない方がいいと。

相手が日本人でない場合は攻撃はされませんが、
きょとんとされるだけで理解をしてもらえた試しがほぼありません。

散々危険だと話しても、その後に日本の、それも東京に旅行に行って
刺身などの海産物を堪能したと聞かされ脱力したことが何度かありました。

しかし、元からある程度は危険と分かっている人もいるようで、
「震災後に日本に旅行に行ったけど西日本以外行かなかった。
空港も関西国際空港を選んだ」という香港人や、
「日本はこれから甲状腺がんが増えるだろうね。
スイスでもチェルノブイリ後にとても増えたから」というスイス人もいました。

そういう人の絶対数は非常に少ないですが・・・。

幸い、最近では放射能を気にしていないながらも
私の考えを受け入れてくれる仲間に恵まれています。

それで、自分に無理のない範囲で細々とでも危険性を伝えていこうと思い、
オフラインで放射能のことを口にする機会はめったにありませんが、
オンラインの掲示板やこのブログなどで自分の考えを発信することにしました。