プロフィール


菊川美代子

2012年3月に同志社大学大学院博士課程単位取得退学、2012年5月にオーストラリアへワーホリビザで渡航。
オーストラリアで2年間のワーホリ、NZで1年のワーホリを経て、現在はパートナービザ(Work Visa Based on Partnership)にてNZに滞在しています。
オーストラリアで出会ったアイリッシュのパートナーと永住権目指して奮闘中。
私のオーストラリアワーホリ体験談はこちら

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ご連絡はmiyoko.kikukawa★gmail.comまでどうぞ。(★を@に変えてください)

学術的訓練は現状の危機を認め、警鐘を鳴らしうるのか?

 

私が大学院で修士課程で研究していたのは、
日露戦争を始めとして国民の大多数が主戦論であった時に
内村鑑三という人物は非戦論を貫けた要因でした。

また、博士課程での研究テーマは
内村鑑三の弟子達もまた、全員ではないにせよ、
第二次大戦時の国家主義全盛の時代に
なぜ政府の非を責め、非戦論の立場を取れたのかということでした。

当時の私は、修士課程の研究に対しては、
内村は日清戦争時で主戦論を唱えていたが
美辞麗句に彩られた戦争の実質は侵略戦争であったことに
ショックを受けた内村は戦争の本質を学んだからだ、
と修士論文で結論を出しました。

博士課程での研究に対しては、博士論文は結局書かなかったものの
内村の非戦論の薫陶を受けそれを継承した弟子達が
主戦論者と非戦論者に別れたのは
彼らの聖書解釈(特にイザヤ書)の差異にあると
結論を出していました。

しかし、聖書解釈の差異が要因といっても、
なぜそのような解釈をするに至ったのかと考えてみると
内村のように日清戦争で戦争の内実を見たという
明確な転機がないのであれば、
最終的には本人の生育暦や性質、性格、嗜好などに
原因が求められることになります。

また、侵略戦争であるという事実を突きつけられても
それを否認し認められない種類の人も存在しますので、
美辞麗句に彩られた戦争の実際を見分しても
それが転機になるかはやはり人によるとも言えます
(ドイツや日本の歴史修正主義者を見れば分かります)。

したがって、結局は聖書解釈の差異が生じた要因を割り出せず、
また割り出せとしてそのような再現不可能な要因を共有はできても
実践するのは不可能であり、また意味があまりあるとは思えないので
何ともモヤモヤした感じで研究を終えました。

原発事故以降、アカデミアの人間が
安全神話を語るのを目の当たりにして私は本当に驚き、また絶望し、
学術的訓練とは一体何なのだろう?と考えさせられました。

本人達は「神話」ではなく
「科学的・学術的事実」と思っている訳ですが。

もちろん全員がそんな風ではなく
私のようにそうではない者もいますし、
私よりも早く気づいて警鐘を鳴らした/今も鳴らし続けている
研究者もまたいます。

原発事故と戦争とでは状況が違いますが、
政府が誤った行いを美辞麗句で隠蔽している状況は同じです。

 

私は自分の体に起きた変化で
事故後半年して気づいたという鈍さでした。

気づいてからは怒涛の勢いで調べ出して、
政府が間違っているとすぐに気づき
「政府を信用しないなんて」と笑う周囲をよそに
気づいてから約8ヶ月には
大学院を退学してオーストラリアにワーホリビザで飛び
海外への避難を完了していました。

それでも、体調不良が起こらなかったら
今でも日本の急激な右傾化には気づけていたでしょうが
その右傾化は原発事故が根本的要因であることに
気づけているかはどうか怪しいかもしれません。

研究者の多数派が政府の対応に全幅の信頼を置き
自分の研究から得た教訓を何ら生かせず
むしろ現状を肯定する安全神話に加担したのは
学術が権力に戦いさえせず敗北した
ように感じられました。

 

 

こうした状況を振り返って、私が内村の思想を研究して

「時代の主潮が国家主義であった時に
それに呑みこまれずに反権力思想を持ち続けられた要因を探り、
探し当てた要因を共有することにより
時代の主潮が間違った方向に行かないようにできる教訓はないか?」

と考えていたように、

「もし後世の研究者が自分の思想を同様の理由で研究するとしたら?
そこに何か未来に生かせる教訓は存在するのか?」

とふと考えることが何度かありました。

自分で思いつく限りでは、
自分が日本政府が間違っていると思えるのは以下の要因からです。

・内村鑑三の著作を何年も読み続けそこから影響を受けたこと
・事故後半年の無頓着な食生活で体調不良が起こったこと
・学術的訓練から得た資料批判の方法などを駆使して
 チェルノブイリ関連の資料などを読み
 日本政府とソ連政府の対応の共通点に気づいたこと

これがどのように未来の教訓に生かせるかどうかは
疑問符がおそらく付くでしょう。

同じ内村の著作を読んでも原発事故に対する日本政府の対応に
何の疑問も持たない人達だっていますし、
体調不良は原因が放射能と考えつく人の方が珍しいでしょう。

学術的訓練を受けてチェルノブイリ事故の資料を読んでも
危険性を理解できず「風評被害を撲滅しよう」と
頑張っている研究者達(しかもそちらが主流派)もいます。

結局間違っていることを間違っていると学術的に考えられるのは
本人の素質による
のかな、と
身も蓋もないことを最近考えています。

人間は感情の生き物なので、事象に対して感情や何かが先に来て、
結局はそれを学術的な装いで補強しているにすぎない
のかな、など。

被曝を気にする「放射脳」は非科学的か?

 
福島第一原発事故以降、
被曝を気にする人を「放射脳」と呼び馬鹿にする風潮があります。

これまで環境になかったものが追加され、
危険性が未知であるものを気にすると
「過剰反応」や「神経質」等と笑われるか責められるのが
日本の状況です。

この記事では、「放射脳」という言葉の起源について
取り上げてみます。

まず、「放射脳」という言葉が
現代日本でどのような定義で使われているのか?と
Google日本で検索してみました。

色々な定義が出てきましたが、
要は東日本大震災と福島第一原発事故の被災地と被災者に対し
根拠のない誹謗中傷を行う人々だということのようです。

つまり、放射能が漏れはしたが安全なはずで、
それでも危険だ被曝だというのは非科学的であり、
被災地にとり風評被害であると。

それでは、過去に他国で起こった原発事故では
政府と住民はどのように対応したのでしょうか?

「放射能恐怖症(Radiophobia)」の出現

1986年に現在で言えばウクライナのキエフ
プリピャチにあるチェルノブイリ原子力発電所事故が起きました。

1992年に各国に正式に採用された
国際原子力事象評価尺度 (INES)によれば、
チェルノブイリ原発事故は最悪のレベル7(深刻な事故)に
分類されました。

チェルノブイリ事故後のソビエト連邦でも、
同じように放射能を怖がる人を
“radiophobia(放射線/放射能恐怖症)”と
揶揄する風潮がありました。

 

広河隆一『チェルノブイリ報告』(岩波書店、1991年)には
以下のような報告があります。

 

「放射能恐怖症という言葉を、私はこのとき初めて知ったのだ。しかし注意すると、当時は一般的に原発について警鐘を鳴らしていると見られる人でさえ、この言葉を口にするのに何度も出会ったのである。『プラウダ』科学部長のグーバレフもそうである。
しかしそれから一年半後の九〇年七月の取材では大きな変化があった。ウクライナ政府チェルノブイリ担当副大臣のセルデュクは、「もう放射能恐怖症神話はなくなったと考えていいのですか」という問いに、次のように答える。
「もちろんです。放射能の人体への影響にたいする危惧は現実のものとなったのです。いま直ちに目に見える影響はなくても、私たちは、汚染地域に住む住民たちの将来の危険性について絶えず注意を払う必要があります。医者の仕事は治療することであって、人々が無知だとあざ笑うことではありません。私たち医療政策に従事する者は、キエフ及びその一帯の病気の増加数と、全国の増加数とな関連を調べ、チェルノブリ事故がその増加にどのようにかかわったかを把握しなければならないのです」しかし事故による放射能被害を軽視する人に特徴的なことは、実際に放射能があらゆる病気の原因になることを無視し、病気を放射能恐怖症のせいにしてしまうことだ。」(191頁)

 

反原発の人々ですら事故後2年ほどは放射能恐怖症として
被曝を心配する人々を揶揄していたのに、
一転して4年後には健康被害が明らかになり、
政府高官すらも放射能による健康被害を認めていたことが
分かります。

この恐怖症について、
UNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)は
2002年に以下のように報告しています(513頁)。

United Nations (2000). Sources and Efffects of Ionizing Radiation- United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiation UNSCEAR 2000 Report to the General Assembly, with Science Annexes”, Volume Ⅱ:Effects. (accessed 2017-03-15)

 

「子どもたちを放射能から守る科学者ネットワーク」のFBページのノートに日本語訳がありましたので、
そこから拝借した日本語訳を以下に引用します。

 

「384. チェルノブイリ事故に関する多くの様相が人々に心理障害、ストレスおよび不安を引き起こしているとされてきた。移住、食品供給の変化および個人と家族の行動への制限を含む被ばく量を限定する意図での対策が取られて以来、事故は汚染地域内に住む人々の生活に長期的変化を起こした。これらの変化は、被害を受けた国々においては、ソ連邦の解体によってもたらされた重大な経済、社会および政治的な変化が同時に起こった。このような心理的な反応は放射線被ばくによってではなく、おそらく全体として事故を巡る社会的要因に関連する。

385.個人および家族の移住の意思決定は、しばしば高度に複雑かつ困難なものであった。人々は不安を感じ、科学的、医学的、政治的権威への信頼の欠如はその人々に自らが自制心を失ったと考えさせた。リスクを説明し、人々をなだめようと試みた専門家は、そのリスクを否定し、それ故に不信と不安を強化すると受け取られた。

386. 環境汚染は、当初なされたように放射線恐怖症(radiophobia)とみなされるべきではなく、現実の、目に見えない、定量化も所在を突き止めることも困難な脅威とみなされるべき幅広い不安を生み出した。人々がリスクを把握するやり方の鍵となるのが、リスクに対して人々が行使できるコントロールの度合いである。一旦汚染地域で生活を続ける人々のQOLを改善するために対策が取られれば、多分住民と地方行政とのより良い協力のお陰で、社会的信頼の風潮は改善する。」(強調原文)

 

ここから、放射線恐怖症の人々、つまり「放射脳」は
その人々の非科学性、無知などによるのではなく
社会的要因により発生したことが分かります。

何かを危険だと怖がっている人に同意はできなくても、
どうしてそう思うに感じるに至ったのかなど話を聞くのではなく、
頭ごなしに「お前の考えは間違いだ、絶対安全だ」と言われて、
「そうだな、考えを改めよう」と思う人がどれだけいるでしょうか?

余計に心を閉ざしてかたくなになるのは
簡単に想像できるでしょう。

海外に逃げた「放射脳」は語る

私個人の経験で言えば、関西に住んでいたこともあり、
日本政府がきちんと対策を取れば
そのまま日本に住み続けていたかもしれません。

汚染地域の住民に、国の負担で安全な地域に移住してもらう、
汚染地域で農作物を作るのを禁止する、
汚染地域からの物流を止める、
農作物と加工品を定期的に全量検査する、
事故の深刻さを認めて他国政府に技術援助を求め、
海洋への汚染水流出を止めることにきちんと注力する、など。

しかし実際の対応は全くの正反対で
汚染は全く認めない、認めても健康には問題がないと言う、
検査はほぼザルで、汚染地域からの物流も止まらず
日本全国うっすらと少しずつ広がっている状態。

被曝を防ぐことなどとてもできそうにありません。

このような状態なら、被曝を逃れるには
できるだけ事故現場から遠い所に行くしかないと考えるのは
はたして非論理的でしょうか?

これまで環境中に存在しなかった人口の放射性物質、
体にどんな長期的影響があるかが未知の物質、
安全か危険かが分からないものが環境中に放出されたのに
それを「安全だ」とみなすことは論理的なのでしょうか?

もし危険だったら?
そう考えて恐れるのは非科学的でしょうか?

 

 

先ほど引用した「子どもたちを放射能から守る科学者ネットワーク」の
FBページのノートの末尾には以下の説明が書かれています。

「放射線恐怖症(radiophobia)という言葉は、放射線被ばくに対する「過剰」な不安を示す状況を表すネガティブなニュアンスを含む言葉です。医学用語としてのanxiety(不安症/不安神経症)、および日常語としてのanxiety(不安/懸念)に基づく2つの使われ方があると想像されます。いずれにせよ、放射線の安全に何らかの懸念なり不安なりを抱くこと自体はある意味で自然なことであり、恐怖症あるいはphobiaという言葉/ラベルについては、専門家の診断に基づく「病的」な症状がない場合、あるいは極度に過剰な不安があるという共通了解がない場合には使用を慎むべきと考えられます。」

命をかけた人生最大の賭け

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気がつくとある日、右腕にいつまでも治らない湿疹ができていた。

薬を飲んでも病気の治りが遅くなった。

自律神経失調症で元々体調が悪かったものの、
極端に調子が悪くなり、起き上がれないほどになった。

これらは福島第一原発事故が起きてから半年後、
ずっと関西に住んでいた私の体に起きた異変です。

 

 

2011年3月11日に東日本大震災が起こり、
それに伴い福島第一原発事故が起きました。

関西では停電することもなく、水道やガスが止まることもなく
何も変わらない一日。

増え続ける死者や行方不明者の数をニュースで見ながらも、
家族、親類、友人、恋人すべてが関西の私には
正直遠い世界の話のようでした。

【半年後に起き始めた不可思議な身体症状】

何も気にせずに日常生活を送っていたある日、
右腕の小さい湿疹がいつまでも治らないことに気づきました。

湿疹というにはとても小さく、見た目には分からないのですが
触るとざらざらした感触が分かるものでした。

痒みも痛みもないので、そのうち治るだろうと
皮膚科にも行かずに放置していたのですが
三ヶ月ほど治らずにいました。

そのうち膀胱炎になり、薬を飲んでもなかなか治らず、
かかっていた医師も首を傾げていました。

 

何とか上記の状態から回復してしばらくすると、
それまで4年ほど患っていた自律神経失調症が
極端に悪化しました。

それまでも睡眠不足やストレスがあると悪化していましたが、
その時は特に悪化する要因もなかったのに
一日に一口ほどしかものを食べられず、
ほとんど起き上がれない状態になってしまいました。

【自分が被爆していたかもしれないという恐怖】

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起き上がれない状態のまま何気なくTwitterを開いていると、
私がフォローしていた東大の島薗進先生が
内部被爆の危険性を述べたツイートを投稿しておられました。

そこで「まさか・・・」と思いスマホで少し調べると、
チェルノブイリでは長期間の低線量被爆により
健康被害が発生した
という記事を見つけました。

 

長期間の=この半年間の
低線量被爆=関西での無頓着な飲食

 

と即座に結びつき、
「まさか・・・」とスマホを持っていた指先が冷たくなり
ショックで一瞬軽い貧血のようになりました。

「体調不良の今は、怖くて直視できない。健康になってから見よう」と思い、
それから漢方薬を飲んで何とか回復した一週間後に
ネットで検索して自分なりに色々と調べてみました。

それで調べて得た知識から、
自分のそれまでの半年間の不思議な身体症状は
内部被爆に由来していたのかもしれないと考えるに至りました。

膀胱炎も、排尿の際に尿道をセシウムが傷つけて起こるという
チェルノブイリではとてもありふれた病気だったそうです。

【自分の身体での実験とその結果】

 
そこで実験をしようと、そこから食材の産地を徹底的に選び、
生鮮食品も加工品も西日本の物のみに。

幸いにも関西に住んでいたので
近くの食料品店に売っている生鮮食品は西日本産ばかりでした。

加工品は西日本産のみの原料で加工も西日本となると
なかなか見つけるのが難しかったですが…。

 

 

その実験を始めてから一ヶ月すると右腕の湿疹が消え、
自律神経失調症の症状も安定してくるようになりました。

この実験により、私の身体症状は内部被爆に由来していたと
確度の高い仮説を得られました。

【周囲の理解を得られない戦い】

 

一度気になりだすと止まらなくなり、自分の健康にも関わるので
大学院での自分の研究を放り出して調べ始めました。

 

 

実家に住んでいた私は、気になり始めてすぐに
家中の加工食品の産地と製造地を確認し始めました。

私がシチューのルウのパッケージを台所で一つ一つ見ていると、
それを見た父に指を差され「アホや」と大笑いされたことは
今でも忘れられません。

 

近所の小さいスーパーで安全な加工食品を求めて
1時間もかけて買い物をしたこともありました。

 

 

大学院の恩師は「愛知県東部まで危ない」という私を
「そこが危ないんだったら関西も危ないことになる」と笑い
同僚は「福島に行かないのなら別に気にしなくても」と
呆れた顔
をしていました。

同い年で仲が良かった優秀な同僚は東京出身で、
東京が危ないという私を
「あなたは西日本出身だからそんなことが言えるんだ。
他人の故郷が汚染されていると言うなんて失礼だ」と
責めました

「他人の故郷が汚染されていると言うなんて失礼」ならば、
危険と分かっているのに何も言わずに見殺しにする方が
親しい友に対して礼儀を欠いているのでは?と思われましたが
本当に周りの誰一人として私に賛同してくれなかったので
「おかしいのは自分なのかもしれない」と思い
下を向いて黙っていました。

当時付き合っていた、結婚を前提にして付き合っていた恋人とも
放射能の危険性に対する見解の相違から別れました。

彼もまた東京出身で、
同僚と同じように東京が危険だという私と意見が一致せず、
将来が見えなくなったからです。

「仕事のためなら健康は犠牲になってもいい。
福島は無理だが、東北になら赴任してもいい」という
彼の価値観には賛同できませんでした。

私の父は私が小さい頃に脳梗塞を起こし、
それ以来右半身が麻痺して病弱になりました。

利き手で文字が書けなくなり、呂律がうまく回らなくなり、
走れなくなり、雨の日は常に右半身が痛み、体力は低下し、
働き盛りの年齢なのに週5日の仕事を
できる体力がなくなってしまいました。

「身体さえ健康だったら」と
いつも悔しがっていた父を見ながら育った
私には
健康を害するかもしれない選択肢を取ることは
できませんでした。

しかし、この彼と付き合っていた時に彼が私に話していた、
オーストラリアのワーキングホリデーに行った彼の友達の話が
結果的に私の運命を変えることになりました。

 

 

【国外避難を決意するまで】

 

食品の汚染が気になりだすと物品の汚染も気になりだし、
調べていくうちに産地や製造地が安全な地域でも
物流の際の経由地や保管場所が危険な地域だったりすることが
分かりました。

食品も物品も気にし始めると、
全ての安全なものを入手することは
西日本であっても難しいか、手間がかかります。

大気も、物流が制限されていないため
一般人が持ち込んだ東日本のゴミが焼却されているし、
季節や風向きによっては福島から風が吹きます。

 

 

外食も限られたお店にしか行けません。

付き合いもあるし、
いつも安全な外食のお店に行けるとも限りません。

行けない場合の方が多いでしょう。

かといって、自律神経失調症でいつも体調が悪く
英語も話せない自分は海外になんて行けないだろう、
大学院留学しかないだろうか、
しかし大学院留学できるほどの能力もない・・・と思い
悶々とした毎日を送っていました。

そんな時、上述の彼と付き合っていた時に聞いた
オーストラリアのワーキングホリデーの話をふと思い出し、
調べてみると私はそのビザを取れることが分かりました。

申請時に29歳以下の日本国籍保持者でさえあれば
働く権利のあるビザが一年もらえて、
オーストラリア政府の定める田舎の地域で
三ヶ月の季節労働をすれば更に一年の合計二年滞在できる、
というお金も手に職もない自分には夢のようなビザ
でした。

ビザの申請はオンラインでできるので早速申請し、
申請からたった二日でビザが降りました。

それでも外国に一人で乗り込むのは勇気がいるので
まずは情報収集を、と思いネットを見ていると
APLaCのページを見つけました。

そこにある過去のエッセイ
APLaCにこれまでお世話になった人の体験談を読み
「この人に頼んだら大丈夫そうだ」と確信してメールを送り、
5月下旬に一括パックの申し込みをしました。

【決意をしてから実際に渡豪するまで】

 

ビザを申請したのが2012年1月3日、
ビザが認可されたのが2012年1月5日、
渡豪したのが2012年5月26日でした。

身体症状が出始めてから7ヶ月、
決意してからおよそ4ヶ月弱で日本から出た計算
 です。

決意してビザを取ったにしても貯金がとにかくなく、
到着当初の資金を貯めなければ、ということで
派遣社員で三ヶ月だけ仕事をしてお金を貯めました。

 

 

一点の迷いもなく着々と日本脱出に向けて準備をしていましたが
それでもふと日本を出ることが怖くなり、
考え出すと全身が小さく震えだすことがありました。

 

英語がろくに話せないのに生きていけるだろうか?
手に職がない自分にどんな仕事ができるだろうか?
たかだか50万円もない貯金が尽きたらどうする?
知り合いすら一人もいない外国でやっていけるのか?
永住権だって取れるとは限らない、取れなければどうする?・・・

 

そんな時はいつも
「論理的に考えて、もう日本を出る以外に
自分が生きられる道はない。このビザに賭けるしかないんだ」

と自分を説得し、奮い立たせていました。

 

不慣れな仕事で忙しく働きつつ貯金をしていると、
あっという間に出発日になりました。

 

 

【オーストラリアに到着してから】

 

オーストラリアに着いてからは、最低時給が15ドルなのに
10ドルしか払わない日本食レストランでしか仕事を貰えず、
とても貧乏でした。

日本食レストランのウエイトレス以外の仕事にありつこうと、
履歴書を一年間配り歩いてかれこそ200枚配ったのに
面接にすら一件も呼ばれず、金銭的に辛い日々を過ごしました。

「親のお金で博士課程にまで行かせてもらったのに、
一体自分はこんな遠い外国まで来て何をやっているんだろう?」
と何度も考えました。

それでも、どんなに裕福であっても成功していても
健康さえなければ全てが水の泡である、という価値観の私は
綺麗な空気を吸えることに感謝していました。

貧乏で外食ができなくても
スーパーで安全な食材を買えることに喜んでいました。

 

「オーストラリアで永住権が取れなくても
29歳の自分は30歳までに申請すれば
ニュージーランドのワーキングホリデービザも取れるから
南半球で二年間半くらい過ごせるし、
永住権が取れなくともせめて良い保養になるだろう」と。

学業、キャリア、家族、恋人、友人、故郷、健康、
どれも大事ですが、それでもなお優先順位をつけて
行動に出ることができた自分を誇らしく思います。

何かを得るためには何かを失わないといけないのですが、
それを仕方のないことだと割り切れる強さが
自分の長所かもしれません。

「前世」は博士課程の大学院生だった

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三年半前までは、まさかこんなことになるとは思いませんでした。

 

 
日本にいた頃の自分は、
博士課程に在籍していた大学院生でした。

28歳で経済的自立の目途もなく、鬱屈した日々を送っていました。

 

同い年の大学の同期はどんどん結婚していき、
やりがいのある仕事を任されキャリアを積んでいたり、
子どもを産んでいたりと堅実な生活をしている一方で
自分は博士課程を修了したとしても
常勤の雇用は狭き門なので正規雇用につけるかは不明な状態。

研究が好きながらも、自分が研究者としてやっていけるか
自分の才能に自信が持てず…。

仮に才能があっても、常勤の仕事に就けないかもしれない。

 

 

才能があるのに、運や学閥といった能力以外の要素が強く働き
不遇の状況にある人達をたくさん見てきました。

 

当時の私は自律神経失調症を患っていたので
体調不良も将来の見通しの不安さに拍車をかけていました。

【当初の予定は大学院留学】

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そんな中、2011年の3月に東日本大震災が起こり、
福島第一原子力発電所事故が発生しました。

 

日本政府は放射能を避け、被曝を回避しようとする人々を
「絆」のスローガンの下に抑圧しており、
環境省は「痛みを分かち合う」ために
放射能汚染された被災地の瓦礫を関西で焼却すると発案しました。

そのような案を「絆」の名の下に支持し、
反対派を「非国民」と叩く国民が多数派である状況を見て
1930年代の日本との類似性を感じ、
「70年弱を経てもこの国は何も変わっていない」と思い、
日本を永久に離れる決意をしました。

避難先はオーストラリアに決めました。

オーストラリアは英語圏で、南半球に位置し、
ワーキングホリデーで2年間滞在することが可能だったからです。

そこで問題になったのは、それまでの大学院生としてのキャリアを
どうするべきかということでした。

 

 

有能ではない自分は、優秀な研究者の卵であれば
多くの人が採用される日本学術振興会の特別研究員になれず、
両親にそれまでの学費と生活費の面倒を見てもらっていました。

 

「決して裕福ではない親に博士課程まで出資してもらったのに、
ここで後には引けない…」

「でも、能力がないのなら早く見切りをつけなければ
損失がより大きくなるのでは?」

 
この二つの考えの間でしばらく揺れましたが、

「オーストラリアの大学院に研究留学であれば格好がつくし、
放射能からの避難もできるし、研究も継続できる」

という結論に至り、自分の指導教授をお願いできる教員が
オーストラリアにいるか探したところ、自分の専門に近い教員が
オーストラリア国立大学(ANU)にいたので
そこの博士課程に入学するという目標を立てました。

オーストラリア一の名門大学の大学院の博士課程に
研究留学であれば箔が付く、と。

それに従い、ワーキングホリデーを
現地の大学院入学までに英語を上達させる準備期間として
位置付けました。

 

放射能からの避難のために海外に出る、と話すと
失笑して馬鹿にしてきた大学院の同僚達も
研究留学のために海外に出る、と話すと
激励して送り出してくれました。

【準備期間で予想外の心境に】

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オーストラリアにワーキングホリデービザで滞在していると、
これまでの自分の価値観が根底から揺らぎました。

 

 

オーストラリアでは職を探す際に
働きたいお店に行き履歴書を渡すというやり方なのですが、
私は一年に渡って200件以上に履歴書を配ったのに
面接の連絡すらありませんでした。

履歴書を配る時の笑顔が固いのがいけないのか、とか
英語の言い回しはこのフレーズの方がいいか、など
努力をして工夫を重ねましたが、何の変化もありませんでした。

その一方で、何の努力もしていないように(私には)見えた人達が
次々と仕事をもらっているのを見て、
「この世界には努力ではどうにもならないことがあるのだ」
その時に初めて悟りました。

 

 

それまでの自分は、たまたま母国で全てがうまくいっていただけで
「物事がうまくいっていない人は努力をしていないだけで、
うまくいっていない人は自業自得だ」
と思っていた節がありました。

自分は学術的には新自由主義を批判していたのに
新自由主義的な価値観を実は根底で持ち合わせていたのです。

そのことに気づき、ゾッとしました。

履歴書を配っても音沙汰がなかった200件というのは、
非日系のローカルのお店ばかりでした。

日系のお店ではワーキングホリデービザや学生ビザなど
短期ビザの日本人を最低賃金以下で雇い、
お給料は現金払いという違法行為がまかり通っています。

日本人が英語が不得意であること、また短期ビザで
仕事が見つけにくいことに漬け込んでいるのです。

適正賃金のローカルのお店で働くのが理想ですが、
見つからないため日本食レストランで
時給10ドルで働く日々が半年ほど続きました。
(私が滞在していたNSW州のウェイトレスの最低時給は15ドル)

これが不服だったのでFairwork Australiaに訴えましたが
何の音沙汰もありませんでした。

フランチャイズでもない日本食レストランの脱税を
何件分か押さえたところで取れる額は微々たるもの、
大企業の脱税でもないので相手にされなかったのだと思います。

そのことにショックを受け、日本での自分の権利は
日本国籍保持者故に守られていたに過ぎなかったことに気づき、
外国人という身分の法的な不安定さを実感しました。

また、外国人がエスニックレストランで低賃金で働かされていても
おいしい食事を自国民に安く提供してくれているのだから
オーストラリア政府に取り別に問題はないのだろうなと。

国民国家はやはりその枠外にいる外国人には冷淡で、
資本主義自体がこのような搾取の上に成立していると
大学院で学んでいたことを実際に体験できたので、
これはこれで貴重な体験でした。

オーストラリア人は日本食レストランの時給が10ドルとは知らず、
「そんなのはそのお店だけだろう」と信じてもらえず、
その無知さに腹を立てたこともありました。

でも、日本にいた時の自分自身も、<研修期間>という名の下に
無給または薄給で日本で酷使されている東南アジアからの人達から
同じように実情を訴えられても、
すぐには信じなかっただろうと思います

母国にいる人はその社会の主流/内側にいる訳で、
外側から自分の国を見ることができないのだと悟りました。

 

日本でも、新大久保や鶴橋のコリアタウンで働いている韓国人、
また横浜や神戸の中華街で働いている中国人には
法で定められた最低賃金が支払われているのだろうか、
もしそうでないなら、自分は何も知らず申し訳なかったと
胸が痛くなりました。

そんな体験ばかりしているうちに、
もっと世界を学問というフィルターを通さずに
生のままで見てみたい、と思うようになりました。

そもそも学問のフィールドは、この世界そのもののはずだと。

【学界からの離脱を決意】

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そんな風に心境が変わっていく中で、
ANUから博士課程ではなく修士課程のオファーが届きました。

修士課程でのオファーとなった理由は
これまで英語で研究を行った経験がないこと、
私の専門が神学であったので、
歴史学の方法論を修士課程から学んで欲しいということでした。

博士課程であれば多くの奨学金に応募が可能で
奨学金をもらえる確率が比較的高いですが、
修士課程ではもらえる奨学金があまりありません。

 

また、オーストラリアの留学生に対する学費は高く、
年間で200万円程です。

年間200万円に加えて、生活費、
さらに文献を買うなどの研究の費用も必要です。

経済的に不可能だし、また前述の通り、
修士課程へのオファーをもらった時点で
大学院で机に向かって研究することへの興味が薄れてきていたので
オファーをお断りしました。

 

 
また、東日本大震災以降の研究者の発言、あり方を見て
学問とは一体何だろうという疑問が
日本にいた時点から芽生えていたというのもありました。

 

 
第二次大戦期の日本思想やドイツのファシズム専門の研究者のうち
絆のスローガンに疑義を持たないのが多数派であった状況に

「専門分野として研究している時代と似た状況になった際に
それを察知できないとは、研究とは、学問とは一体何だ?」

と疑問を持ち、

国が放射能汚染に対応してくれないからと
一般市民が震災後に放射性物質について
試行錯誤しつつ手弁当で勉強を始め、
寄付を募り市民測定所を開いたことを
「学術的訓練を積んでいないが故に
誤った情報に惑わされている人達がしていること」と
とある研究者が公の場で馬鹿にしていたのを目の当たりにし、

「何だその醜悪な態度は、学術的訓練は絶対ではないぞ」

と憤っている自分がいたのです。

【学界からの離脱後】

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学界から去ろうと決意をしたものの、
自分はそれまで研究者としての将来像しか描いてこなかったので
目指す明確なものがなくなって
しばらくは心許なく感じる日々が続きました。

「生まれてきたからには自分には何か使命があるはずだ、
自分にとってはそれは研究をすることだ、
だからそれを成し遂げなければならない」
とそれまでの私は思い込んで生きてきたからです。

しかし、ある日ストンと
「この世にしなければいけないことなど何もない。
何をしてもいいし、何もしなくていいのだ」と
腑に落ちた瞬間が訪れました。

自分の使命が何か分かっていると思っている人も
私がそうだったように、
自分の狭い経験の中でそう思い込んでいるだけかもしれません。

学問は絶対的なものではありませんが、
学術的研鑽を積む中で得た批判的・論理的思考と
資料批判の手法、対象の分析方法は私の血肉となっています。

学問を通して得られたそれらの技術や知見こそが大事なもので、
職業としての研究者という形に収まる必要はないと
今では思います。

 
博士課程にまで行って学問を修めたからといっても
別に大学や各種学校で働くだけが選択肢なのではなく、
むしろ自分の人生を豊かにしてくれることこそが
学問を修める醍醐味なのだと思うようになりました。

「危険厨」の私が日本で思っていたこと

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日本で一番苦しかったのは、
とにかく被曝への懸念に理解を示してもらえないことでした。

 
私は関西地方の実家に住んでいました。

内部被爆を気にし始めた頃に家中の食品を安全か調べていると、
それを見た父親に「アホや」と笑われたことは今でも忘れられません。

ちなみにそのチェックの結果、
ほとんどの加工品が東日本で作られたもので、
自分の基準ではアウトでした。

家族や親友、大学院での同僚など、
それまで何の問題もなくお互いに話が通じあっていたのに、
放射能のことになるととたんにお互いが異星人のようでした。

「何で国が安全と言っているのに気にするの?
国が安全というのなら安全に決まっている。」

「何で国が安全と言っていると安全なの?
安全なのは国がそう言っているからだ、
国がそういうから安全なのだ、
というのはただの同語反復でしょう…」と。

私は大学の学部では日本史を専攻し、
大学院でも専門は異なるとはいえ
日本史や歴史学と関連がある分野でした。

そのため、国家が存亡の危機に立たされた時は、
国家はまず自身の存続に全力を注ぐこと、
そのためには国民には「何も心配はいらない」と
体制を少しでも長く存続させるために
もうどうしようもなくなるまで嘘をつき続けて、
国民を守らないという事例をいくつも学んでいました。

今では反原発がアイデンティティーのようになっているドイツも、
チェルノブイリ原発事故当時は政府が食品の基準を引き上げて、
国民(特に女性)がそれに対して抗議して基準を引き下げさせて
今の基準になったという歴史があります。

だから、国が安全と言っても信用できず、
むしろ「風評被害」と否定すればするほど、
いよいよ危ないんだなぁと身が引き締まる思いでした。

関西だと、野菜は西日本産のものが多いので
安全な野菜選びにはまずあまり困りませんでした。

冬になると東日本から葉物野菜が入ってきますし、
あとリンゴが青森の物ばかりでしたが、それくらいです。

産地偽装してるスーパーなんかもあるかもしれませんが、
それはもう見つけようがないので気にしませんでした。

 
あと、兵庫県南部の農家が、
JAが配布した宮城県産の除草剤を使ってお米に10bq/kgが
出てしまったことがありましたが、
どの農家かわからないのでこれも避けたかったですが
避けようがなかったです。

 

 
そういえば、この掲示板を読んでいるであれば
ご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、
先日、台湾政府が日本からの輸入食品への規制を強くしましたね。

それに際し、大阪のお茶も輸入規制の対象となりました。

http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000050482.html

これまで勉強してきた自分にとっても、
やはり自分の出身地域から汚染が出るというのは悲しいです。

何で大阪のお茶が危険とみなされているかというのは、
2012年から行われていた此花区での瓦礫焼却の影響かと思います。

半引きこもりの私が博士課程を棒に振って海外に出た理由

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【日本を出るまでの経緯】

「私はワーキングホリデービザでオーストラリアに行く。
向こうで永住権を取って、日本には二度と帰らない。」

「博士課程を棒に振るというのか。現実的になれ…」

渡豪前の日本で、この会話を何人と何度したことか。

 

 

この会話を飽きるほど繰り返した四か月後、
私はオーストラリアのシドニーにいました。

海外に行ったのは、家族旅行でのグアム三泊四日と、
大学時代に卒業旅行で行った
フランスとイタリアとギリシャの七泊九日だけ。

長期滞在は、10年ほど前に行った
カナダでの二週間のホームステイのみ。

英会話は多少できるものの、
常に片手に電子辞書が必要な状態。

現地で生計を立てられるような手に職も、特技もなし。

そんな状態でした。

さらに、当時の私は体調面に問題がありました。

大学院で受けたパワーハラスメントによって
4年間にも及ぶ自律神経失調症を患っており、
睡眠障害と食欲不振に苦しんでいたのです。

こんな体で、外国に滞在するなんて無茶かもしれない…

と思いました。

 

それでも、自分の未来の子供のために
何としてでも放射能から逃れたかったのです。

原発事故から無頓着に暮らしていた半年後の自分の体には、、
今まで出たことのない不思議な症状の数々が出ました。

内部被爆かもしれない…と恐怖に震えました。

でも、それを証明する方法などありません。

 

科学的に安全か危険か分からないものは、
危険だとみなして対処することが
リスクヘッジだと思い、日本を出ることにしました。

かといって、自分のような人間が
知り合いすらいない国に
下見なしで移住するのが無謀なのは明らかでした。

 

【メンターとの出会い、そして渡豪の決意】

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何か方法はないかとネットで調べていたら、
オーストラリア在住の個人エージェントのAplacを見つけました。

その個人エージェントの名前は、田村さん。

日本での士業という輝かしいキャリアを捨てて
好景気前で賃金が安かったオーストラリアに
10年以上前に移住した異色の人物でした。

そのエージェントの売りは、渡豪後一週間以内に
オーストラリア生活で必要な知識を
集中的に叩き込んでくれる「一括パック」でした。

しかも、田村さんが紹介する学校に12週間以上通えば、
一括パックは無料になります。

現地の文化やマナー、交通機関の使い方、
住む場所の探し方など。

早速田村さんにメールを送り、お世話になることにしました。

これで現地で当初は生き抜ける見込みは立ったので、
後は日本での諸手続きを済ませるのみとなりました。

 
まず、契約の一週間ほど後に
オーストラリアのワーキングホリデービザを
オンラインで取得。

年始で移民局が暇だったのか、三日でビザが下りました。

 
大学院は三月末で退学するための手続きを済ませました。

 

次に、役所関係の手続き。

私の場合は市役所へ行って転出届を出し、
国民健康保険脱退の手続きをするのみでした。

残るは、周囲の説得。

最初は分かってもらおうとしましたが、
「放射能を避けるため海外に移住する」
と話しても、全員がポカンとするばかり。

中には、鼻で笑う人達も。

新聞とテレビでは安全だと言っていますので。

 

ですので、周囲に分かってもらおうとすることは早々に諦め、
反対する周囲を振り切って出国しました。

結婚を前提に付き合っていた恋人とも、
放射能に対する意見の違いからお別れをしました。

かなりの人と縁が切れてしまいましたが、
後悔はしていません。

家族と親友だけは、理解はしてくれないものの、
私の決断を尊重してくれました。

最後の問題は、渡航資金。

私は大学院生で学生だったため、
本などを買っていて貯金がありませんでした。

そこで、派遣会社に登録し、
時給のいい携帯電話の販売の仕事を三か月間集中的にやり、
50万円貯めました。

 

無我夢中で渡航準備をしているうちに
積年の体調不良がいつの間にか消えてなくなりました。

心因性のものだったので、
生きるか死ぬかというレベルで達成したい目標ができて
それまでのストレスを忘れるほど
全力投球したからかもしれません。

全ての不安要素が消えたとはいえ、
それでもやはり出国日が近づいてくると緊張してきました。

出発の一か月前から再び食欲が低下し、
渡豪のことを考えると
体の震えが止まらなくなることもありました。

そして迎えた出発当日。

両親に車で送ってもらい空港へ。

両親に別れの挨拶をして早めにチェックインをし、
空港の中へ入りました。

 
私のフライトは夜8時のものだったので
空港内には人もまばらで、
ほとんどの店も閉まっていて静かでした。

「死ぬまで日本を出ないと思っていた自分が
まさかこんな形で母国を捨てることになるなんて…」

などとぼんやり考えているうちに
搭乗時間になり、飛行機に乗り込みました。

 
座席に座りシートベルトを締めると、
鼓動が少し早くなりました。

「もう、戻れない」

そう思いながらターミナルを見つめていると、
飛行機が動き出しました。

離陸体制に入ると涙が止まらなくなりました。

機体の車輪が陸から離れた瞬間に
何だか心に穴が開いたような気持ちになって、
明かりが見えなくなるまで
何度も涙を拭きながらずっと陸を見つめていました。

 
ケアンズで飛行機を乗り換え、
シドニーに到着すると田村さんが迎えに来てくれていて、
日本語が話せたのでホッとしました。

空港からは、田村さんの事務所兼ご自宅へ。

そこから現地で生き抜くためのサバイバルスキルを
一週間徹底的に叩き込んでもらいました。

そして一週間後には、一人で交通機関を乗りこなせるようになり、
語学学校を現地で見学してから決めて入学し、
オーストラリア人とのシェア住居への引っ越しを
決めることができた自分がいました。

 
【三年間を振り返って】
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「二度と帰らない」と腹を括って出国しましたが、
約3年が経ってから、諸事情により一時帰国しました。

その時に思ったのは、日本は物品が溢れているけど魂がない…
ということです。

とても便利だけど、すべてが予定調和でつまらないです。

世界は広くて、まだまだ知らないことの方が多いはず。

それなのに、日本にいると
まるですべてを知っているかのように錯覚してしまいます。

ふらりとどこかの民族の食料品店に入って、
何に使うか全く想像できないようなスパイスを眺めて
想像を膨らませたり、というようなことが全く起こりません。

また、日本は消費者としてのみ滞在するなら、
サービスの質が高く天国のような国です。

しかし、労働するとなるとサービス残業は当たり前、
女性であれば妊娠・出産を機に退職を余儀なくされることが多く、
接客業で働くと、「お客様は神様」と勘違いした疫病神が
クレームばかりつけてきます。

 
オーストラリアとニュージーランドでは、
サービスの質は低いですが、働く側としてはとても楽です。

残業はありませんからプライベートが充実しますし、
妊娠・出産しても仕事を続けられるのが当たり前です。

有給休暇も消化するのが当たり前。

有休をとって東南アジアなど物価が安い国に
一か月半など行けば、旅行中も何と黒字です。

放射能に怯える必要も、もうありません。

呼気被曝はありません。

食品からの内部被爆も、少しだけ気を付ければ大丈夫です。

日本食レストランに行かず、
東欧と日本からの輸入食品を避ければまずしません。

周りの空気を読むことも、
周りの意見に合わせることもしなくてよくなります。

違いを尊重する文化なので、
意見が異なっても「君はそうなんだね」と納得されて、
それでわだかまりもありません。

だから、世間体や体裁なんてものは存在しません。

3年前は日本に住むか、日本以外に住むかという
選択肢しか自分にはありませんでした。

でも、今では生き抜く力が付いたこともあり、
世界200ヵ国のうち日本が選択肢の一つにすぎなくなりました。

たとえ母国であっても、
苦しい思いをして住み続けなければならないことはないのです。

苦しいなら、住む国を変えてしまう…

観光ビザでもいいので、一か月ほど日本の外に出て深呼吸してみる。

それで見えてくるものが何かあるかもしれません。

見えない放射能が対人関係を破壊する

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私は放射能を避けるために、
半引きこもりなのに博士課程を棒に振ってまで
日本から脱出しました。

 

私は、それまでの28年間、一人暮らしすらしたことがなかった
箱入り娘でした。

そんな私の背中をそこまで押した理由とは
何だったのでしょうか。

もちろん、食べ物や飲み物、大気の汚染を避けるというのが
一番の目的です。

でも同時に、家族や恋人、友人との埋まらない溝に
苦しんでいたというのも大きな理由でした。

私は、原発事故後半年は何も気にせず過ごしていました。

でも、半年後に原因不明の症状に苦しみ、
寝込みながらネットで原因を調べていたら
「内部被爆かもしれない…」と気づきました。

 
もちろん、ただの偶然で、そうじゃなかったかもしれません。

 
でも、そこからは気になり始めて
どんどん調べるのが止まらなくなり、
「出来る限りの安全を追求するなら、海外に出るしかない」と
思い至りました。

 

 
そうして調べているうちに知識をつけていった私は、
まわりに「その食材は危険だ、避けたほうがいい」などと
良かれと思って言い始めました。

 
でも、まったく聞き入れてもらえませんでした。

 
「もう日本産のキノコは全部危ない」と言っても、
キノコで料理の出汁を取る母親。

自分の未来の子供を守りたいと思って
安全な食品探しに奔走する私を「アホや」と
笑った父親。

「俺の故郷が危険だというのか、無神経だ」と
怒って喧嘩が絶えなくなった当時の恋人。

妊活を頑張っているのに、
産地を気にせず乳製品を毎日食べているという親友。

自分以外は、みんな何事もなかったかのように暮らしている…。

気にしているのは自分だけ…。

 

 

 
もう、限界でした。

 

 

 

まるでホラー映画のようだ、
これは悪夢なのか、そうであれば早く覚めてほしいと
願う日々でした。

 

何でも話し合えて分かり合える人たちと、
放射能のことだけは平行線。

そうこうしているうちに三か月が経過し、
もう分かり合うのは無理だと判断した私は
日本を永久に出ることにしました。

 

 
両親と親友は放射能の危険性を理解してはいませんが、
それでも私の決断を尊重してくれました。

当時の恋人とは、別れてしまいましたが…。

特技、手に職、職歴なしでも海外避難は可能

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観光以外で海外に長期滞在するためには、
人より優れた特技や手に職、職歴などなにもいりません。

 
お金も、航空券の購入額を差し引いて
50万円ほどあれば問題ありません。

年齢が29歳以下であれば、30歳の誕生日までに
ワーキングホリデービザに申請すればいいのです。

それだけで、国にはよりますが、基本的には
一年間滞在できるビザが手に入ります。

それも、現地で働く権利があるという特権付きのビザです。

 

 
普通、海外に長期滞在できる手段としてイメージが湧くのは、
観光ビザか学生ビザ、あるいは定年退職後にリタイアビザを取って
東南アジアなどの物価の安い国で貯金を崩しながら暮らす…
というものだと思います。

観光ビザはどの国でも大体90日ほどの有効期限です。

観光ビザには働く権利はありませんので、貯金は減る一方です。

 

学生ビザは働く権利がありますが、オセアニア地域では
学生は学業が本分ということで
働けるのは週20時間までに限定されています。

職種にもよりますが、週20時間の労働では
家賃と食費分くらいにしかならないことが多いです。

 

リタイアビザは日本からもらう年金の額によると思いますが、
働く権利がありませんので、
基本的にはおそらく貯金を崩す生活となります。

 

ですので、この三つのビザは十分なお金がなければ
取ることができません。

しかし、ワーキングホリデービザなら話は全く異なります。

ワーキングホリデービザ申請に必要なのは、
申請時点で29歳以下であること。

 

それだけです。

他のビザと違い、口座残高を証明しなくてもよいし、
現地でフルタイムで働ける権利がありますので、
フルタイムの職を手に入れたらその時点で黒字達成です。

 

つまり、外国に暮らしながらも貯金ができてしまうのです。

特技や手に職があれば職探しが楽になりますが、
なくても全く構いません。

なかったら、ウェイトレスやウェイター、小売店の売り子、
清掃員などの仕事をすればよいのです。

 

こちらでは日本と違って誰も見栄を張りませんから、
自分の仕事がウェイターやウェイトレスと言う時に
恥ずかしく感じることが全くありません。

こちらの都市部では、歩いていても英語がなかなか聞こえないほど
外国人が多いです。

だから外国人の置かれている状況がどんなものか
みんな知っています。

つまり、短期ビザの外国人が出来る仕事は限られていると
わかってもらえるので、恥ずかしくないのです。

カジュアルジョブも、責任が一切ない仕事なので気楽なものです。

気楽な仕事をしつつ、放射能から安全な土地で
貯金をするという暮らしも悪くありません。