プロフィール


菊川美代子

2012年3月に同志社大学大学院博士課程単位取得退学、2012年5月にオーストラリアへワーホリビザで渡航。
オーストラリアで2年間のワーホリ、NZで1年のワーホリを経て、現在はパートナービザ(Work Visa Based on Partnership)にてNZに滞在しています。
オーストラリアで出会ったアイリッシュのパートナーと永住権目指して奮闘中。
私のオーストラリアワーホリ体験談はこちら

→詳しいプロフィール

ご連絡はmiyoko.kikukawa★gmail.comまでどうぞ。(★を@に変えてください)

海外避難生活の裏側

 

財布に2ドル入っていれば余裕を感じ、
9年間大切に履き続けてきた靴を一ヶ月で履き潰した・・・

オーストラリアにワーキングホリデーで渡ってから二ヶ月、
私はシドニーで赤貧の日々を送っていました。

【衣食住に困らなかった日本での日々】


日本での私は実家で暮らしていた大学院生で、
衣食住には困らない生活を送っていました。

大学院生だったためバイト代は全て自分のお小遣いとして
研究のための文献の購入や学会費の支払い、
また外食やお茶代、洋服などに充てていました。

その当時の自分にとっては「お金がない」というのは
それらのお金がないというだけであって、
衣食住に困るという意味ではありませんでした。

両親の持ち家に住まわせてもらい
毎日母親が三食を作ってくれて、
洋服はたくさんは買えませんでしたが
外出の時に着ていく服がないということはありませんでした。

 

生活費を自分で出したことがなかった私は、
29歳にしてお金の使い方を良く知りませんでした。

世の荒波に揉まれたことのない、世間知らずでした。

【元箱入り娘が過ごした赤貧の日々】


オーストラリアでは住宅費が高いので
他人とアパートの部屋や一軒家をシェアして暮らすのが
普通です。

オーストラリアに到着してから
私もすぐにシェアで暮らし始めたのですが、
そのシェアは何と門限がありました。

60代の研究者の女性だったシェアのオーナーからの、
夜は早くに寝たいので22時までに帰ってきて欲しい、
という理由で。

この門限は見学の時に説明を受けていたのですが、
英語力が低かった自分は分かったふりをしてしまい、
入居してから気づいたという体たらくでした。

それでも、実家でも門限が23時だったので
「何とかなるだろう」と楽観的に考えていましたが、
これが赤貧の日々の幕開けでした。

【バイトが見つからず苦戦】

23時が門限だった実家住まいだった時も
問題なくバイトは見つけられていたので
22時でも何とかなるだろうとたかをくくっていました。

 

しかしいざ仕事を探し始めると、
語学学校にフルタイムで通うので昼間は働けない、
手に職もなく英語もできない、
同一の雇用主の元で半年しか働けないビザの自分は
日本人経営の日本食レストランでしか
働き口がない
ことが分かりました。

そしてレストランだと22時や23時に閉店するので
門限が22時だと雇ってもらえないか、
雇ってもらえてもあまりシフトに入れてもらえませんでした。

さらに悪いことに、
日本食レストランは法定最低賃金を払わず
当時のNSW州の法定最低時給15ドルに遥か満たない
10ドルの時給しか払わない所ばかりです。

「英語もろくにできない短期ビザ保持者を
雇ってやるのだから」と。

私が働いた数件の日本食レストランも例外ではなく、
説明もなしに「研修期間は時給8ドル」と言われ
一ヶ月ほど8ドルの時給で働きました。

どんなに安くても、働かないよりは少しでも収入があるので・・・。

時給8ドルや10ドルで、しかもあまりシフトに入れてもらえず、
手持ちのお金がどんどん減っていきました。

オーストラリアに到着してから一ヶ月ほどで貯金が底をつき、
私のエージェントをしていただいていた田村さん
借用書を書いて700ドルを借りるということもしました。

 

この頃は財布に2ドル入っていたら余裕を感じるほどで、
スーパーで買い物をする際には
セント単位でお金を計算しながら買い物をしていました。

日本では実家住まいなことに甘えて料理もしたことがなかったので
作れる料理のレパートリーも貧しく、
またどの食材をどう調理していいか分からず、
最初の二ヶ月はお肉を一切食べずに
玉ねぎと人参とパプリカと白米ばかり食べていて
7キロも太ってしまいました(笑)

こちらでは仕事を探す時には自分から働きたい場所に
履歴書を配って回るのが普通なので
「日本食レストラン以外の仕事を見つけよう!」と
頑張って週末の度に履歴書を配っていましたが
一か月の間に80枚は配ったのに面接にすら呼ばれませんでした

そうこうしているうちについに借金までしたお金も尽き、
家賃150ドルの支払いができなくなり、
残りの有り金87ドルのうち63ドルをオーナーに渡し、
「150ドル÷7日で一日約21ドル、
すみませんがお金がないのであと3日でここを出ます」と告げ
23ドルを持ってそのシェアを出ました。

【29歳にして門限がない自由を初体験】

 

引っ越し先はRozelleというサバーブにある
Balmain Backpackersというバックパッカーでした。

その当時、そこは初めての宿泊の人に
10日間まで一泊10ドルという破格のキャンペーン中だったからです。

しかもシェアと違い商業施設なので
日本から持ってきたクレジットカードで宿泊費の支払いができるため
「これで門限がなくなるのでたくさん働ける。
カードの支払期限までにお金を稼いで
日本の自分の口座に国際送金すればいい」と考えていました。

しかし、今まで閉店作業をしたことがなかったバイトを
いきなり閉店時間までシフトを入れてくれるかというと
当然そんなことはなく、結局シフトはそんなに増えず
カードの支払期限が迫ってきました。

結局親に頭を下げて日本の自分の口座に
お金を送金してもらい、
レントの支払いや食料品、日用品の購入をカードで行い、
自分が稼いだドルは手元に置いておくことにしました。

「もう日本には一生帰らない」と啖呵を切って出たのに、
わずか二ヵ月後には親にお金の送金を頼むとは・・・と
恥ずかしく情けない気持ちでいっぱいになりました。

【救世主の登場】

学校が終わってからバッパーに引っ越して初日の夕方、
駐車場の近くにあるソファーに座ってボーっとしていると
異様に感じのいいアイルランド人男性が話しかけてきました。

結果から言うと彼が私の現在の配偶者(事実婚)で、
事情を知った彼が材料費も彼持ちで夕飯を毎晩作ってくれ、
お金がなくて遊びに出かけたことがないという自分を
全て奢りで遊びに連れ出してくれたりしてもらう内に仲良くなり、
初めて会った日から二週間で付き合うことになりました。

買い食いも、カフェやレストランでの飲食も
赤貧状態でこの二ヶ月間したことがなかった私には
救世主のような存在でした(笑)

日本食レストランでの仕事しかできないと、
違法低賃金なので貯金をするのがかなり難しいです。

普通なら飲食業で働くと賄いで食費が浮きますが、
日本食レストランでは
出される賄いに東日本製の食材や調味料が使われており
私は賄いを食べられなかったので
賄いによる食費の節約が出来ないという要素もありました。

また、賄いを食べられないと
他の従業員から奇異の目で見られたりして
馴染むことができないという辛さもありました。

【熱帯地方で「細腕繁盛記」】

 

彼と出会ってから二か月ほど経った2011年の10月、
一年目のワーキングホリデービザが2012年3月で切れる彼が
二年目のビザを取るために季節労働へと旅立ちました。

オーストラリアのワーキングホリデービザは
政府が指定する田舎の地域で農場での労働などの
季節労働に13週間または88日間従事すると
もう一年延長することができるからです。

彼は友達のツテを辿り
クイーンズランド州北部の熱帯地方にある
Innisfailというバナナ農場がたくさんある町に行き、
私も彼が旅立った一か月ほど後に同じ町に行きました。

Innisfailでは彼と私は
ワーキングホステルに滞在していました。

ワーキングホステルとはバックパッカーなのですが、
チェックインの際に「仕事を斡旋してほしい」と伝えると
順番待ちのリストに入れてもらえて、
順番が早い人から仕事に空きが出た時に仕事がもらえます。

その町には複数のバナナファームがあり、
それらのファームから求人が出ると
ワーキングホステルに連絡が行き、
ホステルがそこに宿泊している人を斡旋していました。

その町は私達が滞在する二年前に
ハリケーンにより損害を受けていて、
それ以来不作が続いていました。

不作であるということは仕事が少ないということで、
私が到着した時点で彼は一か月間順番を待っていました。

 

また、その町のバックパッカーの宿泊費はどこも異常に高く、
一か月間働けずにいた彼の貯金はすぐに底をついていました。

私が到着した翌日に彼は仕事をもらえたのですが、
私もやはり一か月仕事がない状態でした。

待機期間も宿泊費、食費、雑費がかかるので、
仕事をもらうまでに時間がかかりそうなら
本当はさっさと違う町に移動した方が良いです。

しかし、彼と将来事実婚をしようと約束していた私には
別居の選択肢がなかったので
同じ所に滞在することにしました。

ようやく仕事をもらえた彼と私でしたが、
彼が派遣されていたバナナ農場は仕事が少なく、
週5日働けることは稀でした。

私が派遣されていたバナナ農場は仕事が比較的あり、
基本的に毎週5日間働けていました。

 

上述の通り、その町のバックパッカー宿泊費は高額だったので
彼は宿泊費しか払えないような状態で
私がその他の食費や雑費を二人分出す日々が始まりました。

時には、彼が宿泊費すらも払えないような週もありました。

彼をそうして少し養う傍らコツコツと貯金をし、
田村さんからの借金も少しずつ返していき完済しました。

この町に滞在している間、
国の福祉が充実しているので貯金をする習慣がない国出身の彼とは
金銭感覚の違いで何度も激しい喧嘩をしました。

彼が日本語を一切話せないので
私はずっと英語を話さなければならず、
感情的になった時には特に英語がつっかえる自分に対して
私が話し終わるのを待たずに
母語で自分の主張をスラスラと言う彼に追い詰められ、
気が狂いそうになり泣き叫びながら日本語で怒鳴り返して
過呼吸になったことも一度ありました。

そんな様子の私を始めて見た彼は慌てふためき
震える私の口にビニール袋当てて介抱してくれましたが、
私は内心妙に冷静で
「体の調子が少し悪いからと病院に行って
『余命一か月です』といきなり宣告されたら多分こんな感じ」
と頭のどこかで面白がっていました(笑)

そうこうしているうちに13週間の終わりが見え始め、
私の仕事も週4、3とだんだん減ってきていたので
ちょうど13週間でバナナ農場の仕事を辞めることにしました。

その後は彼がすぐに仕事を得られるツテがあった
シドニーに戻りました。

【再びシドニーで赤貧の日々】

 

彼は彼の幼馴染が指揮を執っている
電気会社のセールスの仕事を得て、すぐに働き始めました。

私は履歴書を毎日配り歩くも、
音沙汰がない日々が続いていました。

そのセールスの仕事は基本給がなく出来高制で、
セールスの仕事が苦手な彼には
とても低いお給料しか支払われませんでした。

それでも彼は仕事が見つからない私を養うために
毎日頑張って仕事に行ってくれていたのですが、
ある日「仕事に行けない…」と言って
動けなくなってしまいました。

頭では仕事に行かないと、と思っているのに
体が言うことを聞かない状態でした。

私はといえば日本食レストランではもう働きたくないという
我儘を通し彼に養っていてもらっていたので、
その時の二人合わせての貯金が450ドルほどでした。

結局、出社拒否になってから三日目に
以前働いていた会社から仕事のオファーがあり
無事にセールスの仕事を収入の心配がなく辞められました。

私はシドニーに戻ってきてから履歴書を再び配っていたものの
前回のシドニー滞在分と合わせて200件以上配っても
やはり何の音沙汰もなく毎日落胆していました

そして鬱々と過ごしていたある日、
「今の状況から自分は何か学ぶことがあるから
神の采配か何かで仕事がないのだろうか?
もし自分に仕事とお金があったら今頃どうしているだろう?」

とふと考えることがありました。

そうして考えを巡らせてみると、
「正直、今の私はお金がないから彼の元を飛び出さないだけで、
おそらくお金があったら、とっくに彼と別れて別の街にいるだろう。
それでは、今の状況はお金を得ても彼と別れてはいけない、
彼と人生を共にする腹を括れというお告げかもしれない」
という
結論が自分の中で出てきました。

そこから「彼とは金銭感覚や文化、言葉の違いで苦労するものの
不器用だけどまっすぐな愛情をくれる人で、
彼が私の運命の人なのかもしれない。腹を括ってみよう」と思い
仕事と収入を得ても彼と別れない決意をした翌日に
何と三件もの仕事が同時に降ってきました。

一つ目は日本総領事館での在外選挙の短期バイト、
二つ目は清掃員の仕事、
三つ目は倉庫での梱包作業の仕事でした。

 

結局、倉庫での仕事を選び、
そこでは気のいい同僚に恵まれ毎日楽しく働くことができました。

収入は高くはなかったですが
彼に養ってもらう必要がなくなり、
自活でき貯金もできるようになりました。

【元箱入り娘の叩き上げの原動力とは?】

 

私は不器用で要領が悪いですが、
失敗から学べるという強みがあります。

貧乏だった期間では、
そもそもお金がなぜ必要なのかということを考え、
お金との付き合い方を学び、その学びを徹底的に実践しました。

問題や事象に真摯に向き合って本質を掴み、
他の問題に応用するというのは
私が大学院で得た知的技術です。

 

この知的技術こそが私をして原発事故後の日本政府を疑わせ、
放射性物質の危険性にいち早く気づかせてくれました。

知的技術を駆使して出した自分の結論を信頼できたからこそ、
親の葬式以外は日本の土をもう踏まないのだと腹を括れて
最初は知り合いすらいなかった外国で泥臭く踏ん張れました。

最初は日本食レストランでの仕事しかできなかった私ですが、
たくさんの失敗をして学んでいった結果、
時間はかかりましたが渡豪一年後にはローカルの仕事ができ、
ニュージーランドに移ってからはバリスタの仕事をやり、
日本語教師の仕事をやり、
そのツテで今では日系企業で秘書をしています。

仕事探しで度々苦労して「手に職さえあれば」と
数えきれないほど悔やんだ反面、
知的技術は咀嚼され私の血肉になっていて
それこそが私の「手に職」以上のスキルであり、
あるいはスキル以上のものなのだと今では考えています。

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