「前世」は博士課程の大学院生だった

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三年半前までは、まさかこんなことになるとは思いませんでした。

 

 
日本にいた頃の自分は、
博士課程に在籍していた大学院生でした。

28歳で経済的自立の目途も立たず、鬱屈した日々を送っていました。

 

同い年の大学の同期はどんどん結婚していき、
やりがいのある仕事を任されキャリアを積んでいたり、
子どもを産んでいたりと堅実な生活をしている一方で
自分は博士課程を修了したとしても
常勤の雇用は狭き門なので正規雇用につけるかは不明な状態。

研究が好きながらも、自分が研究者としてやっていけるか
自分の才能に自信が持てず…。

仮に才能があっても、常勤の仕事に就けないかもしれない。

 

 

才能があるのに、運や学閥といった能力以外の要素が強く働き
不遇の状況にある人達をたくさん見てきました。

 

当時の私は自律神経失調症を患っていたので
体調不良も将来の見通しの不安さに拍車をかけていました。

当初の予定は大学院留学

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そんな中、2011年の3月に東日本大震災が起こり、
福島第一原子力発電所事故が発生しました。

 

日本政府は放射能を避け、被曝を回避しようとする人々を
「絆」のスローガンの下に抑圧しており、
環境省は「痛みを分かち合う」ために
放射能汚染された被災地の瓦礫を関西で焼却すると発案しました。

そのような案を「絆」の名の下に支持し、
反対派を「非国民」と叩く国民が多数派である状況を見て
1930年代の日本との類似性を感じ、
「70年弱を経てもこの国は何も変わっていない」と思い、
日本を永久に離れる決意をしました。

避難先はオーストラリアに決めました。

オーストラリアは英語圏で、南半球に位置し、
ワーキングホリデーで2年間滞在することが可能だったからです。

そこで問題になったのは、それまでの大学院生としてのキャリアを
どうするべきかということでした。

 

 

有能ではない自分は、優秀な研究者の卵であれば
多くの人が採用される日本学術振興会の特別研究員になれず、
両親にそれまでの学費と生活費の面倒を見てもらっていました。

 

「決して裕福ではない親に博士課程まで出資してもらったのに、
ここで後には引けない…」

「でも、能力がないのなら早く見切りをつけなければ
損失がより大きくなるのでは?」

 
この二つの考えの間でしばらく揺れましたが、

「オーストラリアの大学院に研究留学であれば格好がつくし、
放射能からの避難もできるし、研究も継続できる」

という結論に至り、自分の指導教授をお願いできる教員が
オーストラリアにいるか探したところ、自分の専門に近い教員が
オーストラリア国立大学(ANU)にいたので
そこの博士課程に入学するという目標を立てました。

オーストラリア一の名門大学の大学院の博士課程に
研究留学であれば箔が付く、と。

それに従い、ワーキングホリデーを
現地の大学院入学までに英語を上達させる準備期間として
位置付けました。

 

放射能からの避難のために海外に出る、と話すと
失笑して馬鹿にしてきた大学院の同僚達も
研究留学のために海外に出る、と話すと
激励して送り出してくれました。

準備期間で予想外の心境に

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オーストラリアにワーキングホリデービザで滞在していると、
これまでの自分の価値観が根底から揺らぎました。

 

 

オーストラリアでは職を探す際に
働きたいお店に行き履歴書を渡すというやり方なのですが、
私は一年に渡って200件以上に履歴書を配ったのに
面接の連絡すらありませんでした。

履歴書を配る時の笑顔が固いのがいけないのか、とか
英語の言い回しはこのフレーズの方がいいか、など
努力をして工夫を重ねましたが、何の変化もありませんでした。

その一方で、何の努力もしていないように(私には)見えた人達が
次々と仕事をもらっているのを見て、
「この世界には努力ではどうにもならないことがあるのだ」
その時に初めて悟りました。

 

 

それまでの自分は、たまたま母国で全てがうまくいっていただけで
「物事がうまくいっていない人は努力をしていないだけで、
うまくいっていない人は自業自得だ」
と思っていた節がありました。

自分は学術的には新自由主義を批判していたのに
新自由主義的な価値観を実は根底で持ち合わせていたのです。

そのことに気づき、ゾッとしました。

履歴書を配っても音沙汰がなかった200件というのは、
非日系のローカルのお店ばかりでした。

日系のお店ではワーキングホリデービザや学生ビザなど
短期ビザの日本人を最低賃金以下で雇い、
お給料は現金払いという違法行為がまかり通っています。

日本人が英語が不得意であること、また短期ビザで
仕事が見つけにくいことに漬け込んでいるのです。

適正賃金のローカルのお店で働くのが理想ですが、
見つからないため日本食レストランで
時給10ドルで働く日々が半年ほど続きました。
(私が滞在していたNSW州のウェイトレスの最低時給は15ドル)

これが不服だったのでFairwork Australiaに訴えましたが
何の音沙汰もありませんでした。

フランチャイズでもない日本食レストランの脱税を
何件分か押さえたところで取れる額は微々たるもの、
大企業の脱税でもないので相手にされなかったのだと思います。

そのことにショックを受け、日本での自分の権利は
日本国籍保持者故に守られていたに過ぎなかったことに気づき、
外国人という身分の法的な不安定さを実感しました。

また、外国人がエスニックレストランで低賃金で働かされていても
おいしい食事を自国民に安く提供してくれているのだから
オーストラリア政府にとり別に問題はないのだろうなと。

国民国家はやはりその枠外にいる外国人には冷淡で、
資本主義自体がこのような搾取の上に成立していると
大学院で学んでいたことを実際に体験できたので、
これはこれで貴重な体験でした。

オーストラリア人は日本食レストランの時給が10ドルとは知らず、
「そんなのはそのお店だけだろう」と信じてもらえず、
その無知さに腹を立てたこともありました。

でも、日本にいた時の自分自身も、<研修期間>という名の下に
無給または薄給で日本で酷使されている東南アジアからの人達から
同じように実情を訴えられても、
すぐには信じなかっただろうと思います。

母国にいる人はその社会の主流/内側にいる訳で、
外側から自分の国を見ることができないのだと悟りました。

 

日本でも、新大久保や鶴橋のコリアタウンで働いている韓国人、
また横浜や神戸の中華街で働いている中国人には
法で定められた最低賃金が支払われているのだろうか、
もしそうでないなら、自分は何も知らず申し訳なかったと
胸が痛くなりました。

そんな体験ばかりしているうちに、
もっと世界を学問というフィルターを通さずに
生のままで見てみたい、と思うようになりました。

そもそも学問のフィールドは、この世界そのもののはずだと。

学界からの離脱を決意

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そんな風に心境が変わっていく中で、
ANUから博士課程ではなく修士課程のオファーが届きました。

修士課程でのオファーとなった理由は
これまで英語で研究を行った経験がないこと、
私の専門が神学であったので、
歴史学の方法論を修士課程から学んで欲しいということでした。

博士課程であれば多くの奨学金に応募が可能で
奨学金をもらえる確率が比較的高いですが、
修士課程ではもらえる奨学金があまりありません。

 

また、オーストラリアの留学生に対する学費は高く、
年間で200万円程です。

年間200万円に加えて、生活費、
さらに文献を買うなどの研究の費用も必要です。

経済的に不可能だし、また前述の通り、
修士課程へのオファーをもらった時点で
大学院で机に向かって研究することへの興味が薄れてきていたので
オファーをお断りしました。

 

 
また、東日本大震災以降の研究者の発言、あり方を見て
学問とは一体何だろうという疑問が
日本にいた時点から芽生えていたというのもありました。

 

 
第二次大戦期の日本思想やドイツのファシズム専門の研究者のうち
絆のスローガンに疑義を持たないのが多数派であった状況に

「専門分野として研究している時代と似た状況になった際に
それを察知できないとは、研究とは、学問とは一体何だ?」

と疑問を持ち、

国が放射能汚染に対応してくれないからと
一般市民が震災後に放射性物質について
試行錯誤しつつ手弁当で勉強を始め、
寄付を募り市民測定所を開いたことを
「学術的訓練を積んでいないが故に
誤った情報に惑わされている人達がしていること」と
とある研究者が公の場で馬鹿にしていたのを目の当たりにし、

「何だその醜悪な態度は、学術的訓練は絶対ではないぞ」

と憤っている自分がいたのです。

学界からの離脱後

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学界から去ろうと決意をしたものの、
自分はそれまで研究者としての将来像しか描いてこなかったので
目指す明確なものがなくなって
しばらくは心許なく感じる日々が続きました。

「生まれてきたからには自分には何か使命があるはずだ、
自分にとってはそれは研究をすることだ、
だからそれを成し遂げなければならない」

とそれまでの私は思い込んで生きてきたからです。

しかし、ある日ストンと
「この世にしなければいけないことなど何もない。
何をしてもいいし、何もしなくていいのだ」

腑に落ちた瞬間が訪れました。

自分の使命が何か分かっていると思っている人も
私がそうだったように、
自分の狭い経験の中でそう思い込んでいるだけかもしれません。

学問は絶対的なものではありませんが、
学術的研鑽を積む中で得た批判的・論理的思考と
資料批判の手法、対象の分析方法は私の血肉となっています。

学問を通して得られたそれらの技術や知見こそが大事なもので、
職業としての研究者という形に収まる必要はないと
今では思います。

 
博士課程にまで行って学問を修めたからといっても
別に大学や各種学校で働くだけが選択肢なのではなく、
むしろ自分の人生を豊かにしてくれることこそが
学問を修める醍醐味なのだと思うようになりました。

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