プロフィール


菊川美代子

2012年3月に同志社大学大学院博士課程単位取得退学、2012年5月にオーストラリアへワーホリビザで渡航。
オーストラリアで2年間のワーホリ、NZで1年のワーホリを経て、現在はパートナービザ(Work Visa Based on Partnership)にてNZに滞在しています。
オーストラリアで出会ったアイリッシュのパートナーと永住権目指して奮闘中。
私のオーストラリアワーホリ体験談はこちら

→詳しいプロフィール

ご連絡はmiyoko.kikukawa★gmail.comまでどうぞ。(★を@に変えてください)

「普通の事務職」で永住権を取得できるという事実

 

現在の私はオークランドの街中心部にある会社で
秘書として働いています。

雇用された当初のJob Title(肩書き)は
Reception and Administration Support
(受付兼事務補助)でした。

その後、移民弁護士のコンサルを受けた時に

「そのポジションから昇進の機会はありますか?
というのも、Secretary(秘書)だとニュージーランド政府の
技能職リストに載っているので、
秘書だと三年の業務経験の後にワークビザが申請可能になります。

あるいはその三年の間に
オンラインコースでDiploma of Businessを取得すると
スポンサーをしてくれる会社さえ見つかれば
三年後に自力での永住権取得が可能になります」

とアドバイスを受けました。

受付のキャリアパスとしては、

受付

個人付秘書(Personal Assistant)
あるいは重役付秘書(Executive Assistant)

秘書

というように昇進していくのだそうです。

学位を取るためには学校で授業を受けねばなりませんが、
物理的に学校に足を運び教室に座って授業を受けるとなると
三ヶ月以上通うことはワークビザだとできません。

ワークビザはあくまでも就労のためのビザであって、
学校に通うには原則的に学生ビザが必要なので、
学校に通える期間は三ヶ月以内に限られます。

しかし、オンラインコースであれば
自分の都合の良い時に勉強できるので、
学校に通った期間を厳密に計算することは不可能。

そのため、オンラインコースだと
ワークビザで受講しても問題がないそうです。

秘書の業務内容がどんなものかネットで調べたところ、
私がしている業務内容と似たようなものでした。

そこで、従業員をスポンサーしない方針である現在の勤務先に

「こういう事情があるので、
昇給を求めるわけではなくただ肩書きを変えて欲しい。
そしてお金が貯まり次第コースを受講して学位を取る」

と会社の上司と人事部長に相談したところ、

「スポンサーはできませんが、できるだけのことはします」

と言ってもらえて、Job Description(職務内容)はそのままに
何と肩書きだけ変えてもらえました。

人事部長からも

「あなたのJob Descriptionは秘書としての職務内容と言っても
おかしくない内容なので、職務内容はそのままにしておきます」

とのことでした。

「外国で永住権を取るなんて、事務職の自分には無理なのでは?」
と思っている人が多いかと思いますが、
実はニュージーランドでは秘書を始めとして
かなりの事務職が技能職とみなされています。

自分のこれまでの仕事や職位が技能職リストに入っているかは
移民局のこのページからチェックできますので、
ぜひ見てみてください。

案外、道は開けているかもしれません。

日本語教師になってみた



 

「『は』と『が』の違いは何ですか?」

「何で『よんふん』じゃなくて『よんぷん』なんですか?」

ワーキングホリデービザにてニュージーランドに渡って一月後、
日本語を教えた経験もなく、
日本語教師の資格もなしの私は
パートタイムの日本語教師として教壇に立っていました。

 

 

ニュージーランドにワーキングホリデービザで来て
すぐに仕事を探し始め、
「大学院で高度な日本語運用能力を身に付けたので
日本語を教える仕事ができるかもしれない」と思いつき、
オークランドの日本語コースがある語学学校に
手当たり次第メールで履歴書を送っていました。

そのうちの一校から返信があり面接に呼ばれ、
何とパートタイムの日本語教師として採用されました。

当時、その語学学校は開校したばかりの
新しい学校でした。

元英語教師として日本を含めた色んな国に住んだ経験がある
20代後半のニュージーランド人女性が校長で、
今度新しく日本語のコースを開設するので、
そのコースの日本語教師第一号になって欲しいとのことでした。

その当時は学校の生徒数がまだまだ少なく、
フルタイムで人を雇う余裕もなかったため
その校長が受付もしていました。

今は生徒数がかなり増え軌道に乗ってきたので、
フルタイムの従業員を二人雇い、
新しい教師募集の面接の際にも模擬授業をやらせたりと
かなり本格的になってきているようです。

私の時は校長が面接の仕方を良く分かっておらず、
ほぼ世間話をしただけで採用になったようなもので
模擬授業など一切ありませんでした。

というか、模擬授業があったら採用されなかったと思います(笑)

これも縁ですね。

お給料は60分の個別レッスンだと時給25ドルで、
90分授業でなぜか30ドルでした。

採用から数ヶ月経った後荷値上げ交渉をして時給27ドル
90分授業で32.5ドルとなりました。

【「いきなり先生」就任】

 

幸か不幸か日本語コースが私の採用と共に開講されたので、
生徒数が最初は一人でした。

一人だとその生徒に合わせて教えればいいので、
日本での塾講師経験すらない自分には幸運でした。

いきなり何人もの生徒相手に団体授業というのは
外国語としての日本語を知らない自分には
無理だったと思います。

その生徒は20代のニュージーランド人の男子大学生で、
JET Programを利用して英語教師として日本に滞在したいので
日本語を学んでいるとのことでした。

その数ヶ月前に友達と日本の北海道へ旅行に行き、
その際の滞在先のホストファミリーと仲良くなり、
日本が大好きになったのだとか。

その彼は日本語をそれまで全く学んだことがなかったというのも、
私には幸運でした。

一緒に一から学んでいけますから・・・。

私は日本人なので日本語を母語として話せますが、
第二言語として日本語を学ぶ人相手に理詰めで教えられるような
知識を持ち合わせていません。

例えば、なぜ「練習試合」を「れんしゅうしあい」ではなく
「れんしゅうじあい」と読むか、など。

日本語ネイティブは子供の時から日本語に囲まれて
大量に記憶して脳が勝手に規則性を見つけて
自然に法則を身に付けますが、
外国語として日本語を学ぶ人にはルールが分からなければ
なぜ「1分」が「いちふん」ではなく「いっぷん」なのかなど
分からないのですね。

日本人が英語を学ぶ際に
「英語の語順は主語、動詞、目的語」
「副詞は形容詞の前に置く」
「命令形は主語を抜いて原型の動詞から文を始める」など
運用のルールを学ばないといけないのと同じです。

【「いきなり先生」辞任騒ぎ】



 

最初は1人だった生徒が3人、4人と増えていき、
日本語コースを開講した翌年の一月、
爆発的に生徒が増え9人のクラス1つと6人のクラス2つを
教えることになりました。

生徒が1人や2、3人なら何とかなってきましたが、
9人となると飲み込みが早い生徒と遅い生徒がいたり、
また一番下の初級のクラスは5週間でしたが
5週間で上のクラスに上げても問題がない生徒と
10週間経っても上のクラスに上げられない生徒が出てきたりと
クラス運営がとても難しくなってきました。

かといって、日本語の教師は自分一人なので
周りの教師に助言を求めてみるも、
ドイツ語やイタリア語など似た系統の言語の教師は
ひらがなやカタカナ、漢字などを教える必要がないので
あまり参考にならず。

韓国語、中国語、アラビア語の教師は同じ時間帯に授業がないので
顔を合わせる機会がなく助言を得られませんでした。

校長に相談すると、スペイン語の教師がベテランなので
彼女から助言を得られるよう場を設けると言われたのですが、
二ヶ月経っても実現の兆しがありませんでした。

何時間もかけて授業の準備をしているのに
うまくいかない授業計画しか作ることができず、
教室で生徒の分からなさそうな顔を見ながら
毎週三回の授業をすることに耐えきれなくなりました。

ある日、校長にメールで

「経験も資格もない自分にはうまく授業が出来なくて、
生徒に申し訳ないため辞任したい。
後任が見つかるまでは続けるので、
出来るだけ早く後任を見つけて欲しい」

と伝えると、すぐに半泣きの校長から電話が来て慰留されました。

「あなたはとても良い先生だからやめないで!
本当にあなたが自分で言う通りのダメな先生なら
生徒はとっくに退学してるはず!
パートタイムの学校だから生徒はいつでも辞められるのに
それでも彼らが残ってるのはあなたの授業に満足してるからよ!」

と言われ、少し心が揺れたので一日考える時間をもらいました。

確かに欠席率が高かったとはいえ、
それまでの生徒でやめたのは一人だけだったし、
生徒は大半が社会人となると仕事も忙しいだろうし、
週1回1時間半のレッスンなので
単に面倒になりやすいというのもあるのかなとも思いました。

 

 

さらに冷静に考えてみると、
バナナファーム倉庫でのような人手仕事じゃない限り、
仕事に何らかの困難は絶対についてくるものだし、
プロでも不十分な環境でパフォーマンスをすることが多いだろう、
それでは今後いわゆるReal Jobに就いた際の練習になるのでは?
と思い直し、辞めずに続けることにしました。

結局、その騒動の後すぐにスペイン語の教師から研修を受けられ、
たくさんの役立つヒントを貰って
多人数の生徒の授業をこなせるようになっていきました。

【辞任騒動から学んだ文化の違い】

 

校長から引き止められた時に言われたことは、
私は何でも真剣に捉えすぎている、ということでした。

いくらプロであってもいつでも100%出来るわけじゃないし、
訓練を受けてないとか資格がないというのは本当だけど、
毎回学んでいってるじゃない!と。

よく考えてみれば、これが本当のOJTだったという・・・。

日本では上述の私のような状況になった時には
頑張るか、辞めるか、手の抜き方を覚えるか、ですが、
西欧圏には「不貞腐れる」というオプションがあるそうです。

自分に出来ることであればフォローをして挽回しようと
頑張ったり謝罪をしたりして何とかしようとするのですが、
フォローが不可能となると、不貞腐れて何もしないのだそうです。

「自分に出来ることはやった。
だから、今の状況は自分のせいじゃない」
と。

そして、そのまま平気で仕事を破綻させてしまうのだそうです。

私のアイルランド人の彼氏も、

「君は最善を尽くしてるんだから、
あとはもううまくいかなくても仕方ない。

自分のせいじゃないんだし、堂々としてたらいい。

授業がうまくいかないとか、色々と真剣に捉えすぎ。

その学校はフルタイムじゃなくてパートタイムなんだし、
学生ビザも出してないんだから、みんな気軽に来て、
何か楽しいアクティビティーでもして学んだ気になりたいんだよ。

本気で勉強したいなら多分フルタイムの学校に行くよ。

別に生徒の出席率が悪くても退学さえしてないんなら
生徒は在籍し続けることに文句はないわけで生徒はハッピー、
学校にお金が入り続けるわけだし学校はハッピー、
君もお給料が入るからハッピー。ほら!Win-win-win!」

…と、その時の私に以下のアドバイスをしてくれました。

これが西洋の仕事に対する考え方か、と。

その時点で海外に出て約二年半経ち、
あらかた西洋文化を知ったつもりでいましたが
毎日新しいことの勉強だと改めて感じました。

だから、この場合の私の対応は
「授業やってて上手くいかなくても、私のせいじゃない」と
傲然としておく、というのが何と正解だったようです。

日本人にはなかなか難しいですが・・・。

文句言われるかもしれないけど、
文句を言っている人も仕事に人格や能力をリンクさせないので、
そこまで気にしていないからこちらが気にする必要もないと。

 

 

【円満退社にて「いきなり先生」辞任】

 

結局、日本語教師は一年半続けたのですが、
やはりパートタイムで貯金をすることが困難だったので、
フルタイムの仕事が決まったことをきっかけに辞めました。

といっても、そのフルタイムの仕事は
校長が紹介してくれたおかげで決まったのですが・・・。

フルタイムの仕事を探していると話していた私に、
日系の会社がバイリンガルの日本人を探しているという話を
私に持ってきてくれたのです。

校長には本当に良くしてもらってばかりでした。

フルタイムの仕事が決まってからも
しばらくは掛け持ちで日本語教師の仕事も続けていたのですが、
新しい仕事が始まって二週間目に
色々あってその当時住んでいたシェアを追い出されることになり
バックパッカーに引越しか、
そうでなければホームレスになるかという状況になりました。

自分は仕事を始めたばかりで休みが取れず物件の見学に行けない、
彼氏は追い出されて気落ちしていて
動けずあてにならないという状態で、
私はストレスで発狂しそうになっていました。

そんな私の状況を知った校長が、何と

「私とパートナーは数日後から一か月間日本旅行でいないから、
その間行くところがないならタダで住んでいい。
どうせもともと誰も住まわせる予定がなかったから
家賃は自分たちで払うつもりだったし」

と申し出てくれました。

校長がその申し出をしてくれた時に
学校で話していたのですが、

「外国に住んでいると、家族から何も助けを得られないでしょう。
家族はとっても役に立つの。いっぱい助けてくれるし。
あそこにある教室にあるテーブルは、
私が子供の頃に夕食を食べていたテーブルなの。
私がこの学校を始めた時も家族はたくさん助けてくれた。
助けが必要だったら何でも言って。
あなたは家族なしで外国に住んでいて、それはとてもしんどいこと。
だから私が助けてあげる」

とニコニコと言われて、涙を堪えるのが大変でした。

その後すぐに授業があったので
泣いて顔をぐちゃぐちゃには出来ない、と思い
「ありがとう・・・」と絞り出した涙声でお礼を言うのが精一杯でした。

今でも思い出すと泣きそうになるのですが(笑)、
人ってここまでしてくれるんだ…と暖かかったです。

さすがに家賃は出すと申し出ましたし、
結局は新居が早く見つかったので
校長の家には滞在することはなかったんですが、
そうして助けを申し出てくれたことが嬉しかったです、

辞めることになった時も、
「後任の人が体調不良などで来れない時には
いつでも呼ぶから、まだこの学校の一員だから送別会はなしね!
あなたの最終日は永遠に来ないのよ!」
と言われ、
本当に人に恵まれた職場だったなと胸が温かくなりました。

今の自分があるのは、
その学校で仕事をしていたおかげだと思います。

海外避難生活の裏側

 

財布に2ドル入っていれば余裕を感じ、
9年間大切に履き続けてきた靴を一ヶ月で履き潰した・・・

オーストラリアにワーキングホリデーで渡ってから二ヶ月、
私はシドニーで赤貧の日々を送っていました。

【衣食住に困らなかった日本での日々】


日本での私は実家で暮らしていた大学院生で、
衣食住には困らない生活を送っていました。

大学院生だったためバイト代は全て自分のお小遣いとして
研究のための文献の購入や学会費の支払い、
また外食やお茶代、洋服などに充てていました。

その当時の自分にとっては「お金がない」というのは
それらのお金がないというだけであって、
衣食住に困るという意味ではありませんでした。

両親の持ち家に住まわせてもらい
毎日母親が三食を作ってくれて、
洋服はたくさんは買えませんでしたが
外出の時に着ていく服がないということはありませんでした。

 

生活費を自分で出したことがなかった私は、
29歳にしてお金の使い方を良く知りませんでした。

世の荒波に揉まれたことのない、世間知らずでした。

【元箱入り娘が過ごした赤貧の日々】


オーストラリアでは住宅費が高いので
他人とアパートの部屋や一軒家をシェアして暮らすのが
普通です。

オーストラリアに到着してから
私もすぐにシェアで暮らし始めたのですが、
そのシェアは何と門限がありました。

60代の研究者の女性だったシェアのオーナーからの、
夜は早くに寝たいので22時までに帰ってきて欲しい、
という理由で。

この門限は見学の時に説明を受けていたのですが、
英語力が低かった自分は分かったふりをしてしまい、
入居してから気づいたという体たらくでした。

それでも、実家でも門限が23時だったので
「何とかなるだろう」と楽観的に考えていましたが、
これが赤貧の日々の幕開けでした。

【バイトが見つからず苦戦】

23時が門限だった実家住まいだった時も
問題なくバイトは見つけられていたので
22時でも何とかなるだろうとたかをくくっていました。

 

しかしいざ仕事を探し始めると、
語学学校にフルタイムで通うので昼間は働けない、
手に職もなく英語もできない、
同一の雇用主の元で半年しか働けないビザの自分は
日本人経営の日本食レストランでしか
働き口がない
ことが分かりました。

そしてレストランだと22時や23時に閉店するので
門限が22時だと雇ってもらえないか、
雇ってもらえてもあまりシフトに入れてもらえませんでした。

さらに悪いことに、
日本食レストランは法定最低賃金を払わず
当時のNSW州の法定最低時給15ドルに遥か満たない
10ドルの時給しか払わない所ばかりです。

「英語もろくにできない短期ビザ保持者を
雇ってやるのだから」と。

私が働いた数件の日本食レストランも例外ではなく、
説明もなしに「研修期間は時給8ドル」と言われ
一ヶ月ほど8ドルの時給で働きました。

どんなに安くても、働かないよりは少しでも収入があるので・・・。

時給8ドルや10ドルで、しかもあまりシフトに入れてもらえず、
手持ちのお金がどんどん減っていきました。

オーストラリアに到着してから一ヶ月ほどで貯金が底をつき、
私のエージェントをしていただいていた田村さん
借用書を書いて700ドルを借りるということもしました。

 

この頃は財布に2ドル入っていたら余裕を感じるほどで、
スーパーで買い物をする際には
セント単位でお金を計算しながら買い物をしていました。

日本では実家住まいなことに甘えて料理もしたことがなかったので
作れる料理のレパートリーも貧しく、
またどの食材をどう調理していいか分からず、
最初の二ヶ月はお肉を一切食べずに
玉ねぎと人参とパプリカと白米ばかり食べていて
7キロも太ってしまいました(笑)

こちらでは仕事を探す時には自分から働きたい場所に
履歴書を配って回るのが普通なので
「日本食レストラン以外の仕事を見つけよう!」と
頑張って週末の度に履歴書を配っていましたが
一か月の間に80枚は配ったのに面接にすら呼ばれませんでした

そうこうしているうちについに借金までしたお金も尽き、
家賃150ドルの支払いができなくなり、
残りの有り金87ドルのうち63ドルをオーナーに渡し、
「150ドル÷7日で一日約21ドル、
すみませんがお金がないのであと3日でここを出ます」と告げ
23ドルを持ってそのシェアを出ました。

【29歳にして門限がない自由を初体験】

 

引っ越し先はRozelleというサバーブにある
Balmain Backpackersというバックパッカーでした。

その当時、そこは初めての宿泊の人に
10日間まで一泊10ドルという破格のキャンペーン中だったからです。

しかもシェアと違い商業施設なので
日本から持ってきたクレジットカードで宿泊費の支払いができるため
「これで門限がなくなるのでたくさん働ける。
カードの支払期限までにお金を稼いで
日本の自分の口座に国際送金すればいい」と考えていました。

しかし、今まで閉店作業をしたことがなかったバイトを
いきなり閉店時間までシフトを入れてくれるかというと
当然そんなことはなく、結局シフトはそんなに増えず
カードの支払期限が迫ってきました。

結局親に頭を下げて日本の自分の口座に
お金を送金してもらい、
レントの支払いや食料品、日用品の購入をカードで行い、
自分が稼いだドルは手元に置いておくことにしました。

「もう日本には一生帰らない」と啖呵を切って出たのに、
わずか二ヵ月後には親にお金の送金を頼むとは・・・と
恥ずかしく情けない気持ちでいっぱいになりました。

【救世主の登場】

学校が終わってからバッパーに引っ越して初日の夕方、
駐車場の近くにあるソファーに座ってボーっとしていると
異様に感じのいいアイルランド人男性が話しかけてきました。

結果から言うと彼が私の現在の配偶者(事実婚)で、
事情を知った彼が材料費も彼持ちで夕飯を毎晩作ってくれ、
お金がなくて遊びに出かけたことがないという自分を
全て奢りで遊びに連れ出してくれたりしてもらう内に仲良くなり、
初めて会った日から二週間で付き合うことになりました。

買い食いも、カフェやレストランでの飲食も
赤貧状態でこの二ヶ月間したことがなかった私には
救世主のような存在でした(笑)

日本食レストランでの仕事しかできないと、
違法低賃金なので貯金をするのがかなり難しいです。

普通なら飲食業で働くと賄いで食費が浮きますが、
日本食レストランでは
出される賄いに東日本製の食材や調味料が使われており
私は賄いを食べられなかったので
賄いによる食費の節約が出来ないという要素もありました。

また、賄いを食べられないと
他の従業員から奇異の目で見られたりして
馴染むことができないという辛さもありました。

【熱帯地方で「細腕繁盛記」】

 

彼と出会ってから二か月ほど経った2011年の10月、
一年目のワーキングホリデービザが2012年3月で切れる彼が
二年目のビザを取るために季節労働へと旅立ちました。

オーストラリアのワーキングホリデービザは
政府が指定する田舎の地域で農場での労働などの
季節労働に13週間または88日間従事すると
もう一年延長することができるからです。

彼は友達のツテを辿り
クイーンズランド州北部の熱帯地方にある
Innisfailというバナナ農場がたくさんある町に行き、
私も彼が旅立った一か月ほど後に同じ町に行きました。

Innisfailでは彼と私は
ワーキングホステルに滞在していました。

ワーキングホステルとはバックパッカーなのですが、
チェックインの際に「仕事を斡旋してほしい」と伝えると
順番待ちのリストに入れてもらえて、
順番が早い人から仕事に空きが出た時に仕事がもらえます。

その町には複数のバナナファームがあり、
それらのファームから求人が出ると
ワーキングホステルに連絡が行き、
ホステルがそこに宿泊している人を斡旋していました。

その町は私達が滞在する二年前に
ハリケーンにより損害を受けていて、
それ以来不作が続いていました。

不作であるということは仕事が少ないということで、
私が到着した時点で彼は一か月間順番を待っていました。

 

また、その町のバックパッカーの宿泊費はどこも異常に高く、
一か月間働けずにいた彼の貯金はすぐに底をついていました。

私が到着した翌日に彼は仕事をもらえたのですが、
私もやはり一か月仕事がない状態でした。

待機期間も宿泊費、食費、雑費がかかるので、
仕事をもらうまでに時間がかかりそうなら
本当はさっさと違う町に移動した方が良いです。

しかし、彼と将来事実婚をしようと約束していた私には
別居の選択肢がなかったので
同じ所に滞在することにしました。

ようやく仕事をもらえた彼と私でしたが、
彼が派遣されていたバナナ農場は仕事が少なく、
週5日働けることは稀でした。

私が派遣されていたバナナ農場は仕事が比較的あり、
基本的に毎週5日間働けていました。

 

上述の通り、その町のバックパッカー宿泊費は高額だったので
彼は宿泊費しか払えないような状態で
私がその他の食費や雑費を二人分出す日々が始まりました。

時には、彼が宿泊費すらも払えないような週もありました。

彼をそうして少し養う傍らコツコツと貯金をし、
田村さんからの借金も少しずつ返していき完済しました。

この町に滞在している間、
国の福祉が充実しているので貯金をする習慣がない国出身の彼とは
金銭感覚の違いで何度も激しい喧嘩をしました。

彼が日本語を一切話せないので
私はずっと英語を話さなければならず、
感情的になった時には特に英語がつっかえる自分に対して
私が話し終わるのを待たずに
母語で自分の主張をスラスラと言う彼に追い詰められ、
気が狂いそうになり泣き叫びながら日本語で怒鳴り返して
過呼吸になったことも一度ありました。

そんな様子の私を始めて見た彼は慌てふためき
震える私の口にビニール袋当てて介抱してくれましたが、
私は内心妙に冷静で
「体の調子が少し悪いからと病院に行って
『余命一か月です』といきなり宣告されたら多分こんな感じ」
と頭のどこかで面白がっていました(笑)

そうこうしているうちに13週間の終わりが見え始め、
私の仕事も週4、3とだんだん減ってきていたので
ちょうど13週間でバナナ農場の仕事を辞めることにしました。

その後は彼がすぐに仕事を得られるツテがあった
シドニーに戻りました。

【再びシドニーで赤貧の日々】

 

彼は彼の幼馴染が指揮を執っている
電気会社のセールスの仕事を得て、すぐに働き始めました。

私は履歴書を毎日配り歩くも、
音沙汰がない日々が続いていました。

そのセールスの仕事は基本給がなく出来高制で、
セールスの仕事が苦手な彼には
とても低いお給料しか支払われませんでした。

それでも彼は仕事が見つからない私を養うために
毎日頑張って仕事に行ってくれていたのですが、
ある日「仕事に行けない…」と言って
動けなくなってしまいました。

頭では仕事に行かないと、と思っているのに
体が言うことを聞かない状態でした。

私はといえば日本食レストランではもう働きたくないという
我儘を通し彼に養っていてもらっていたので、
その時の二人合わせての貯金が450ドルほどでした。

結局、出社拒否になってから三日目に
以前働いていた会社から仕事のオファーがあり
無事にセールスの仕事を収入の心配がなく辞められました。

私はシドニーに戻ってきてから履歴書を再び配っていたものの
前回のシドニー滞在分と合わせて200件以上配っても
やはり何の音沙汰もなく毎日落胆していました

そして鬱々と過ごしていたある日、
「今の状況から自分は何か学ぶことがあるから
神の采配か何かで仕事がないのだろうか?
もし自分に仕事とお金があったら今頃どうしているだろう?」

とふと考えることがありました。

そうして考えを巡らせてみると、
「正直、今の私はお金がないから彼の元を飛び出さないだけで、
おそらくお金があったら、とっくに彼と別れて別の街にいるだろう。
それでは、今の状況はお金を得ても彼と別れてはいけない、
彼と人生を共にする腹を括れというお告げかもしれない」
という
結論が自分の中で出てきました。

そこから「彼とは金銭感覚や文化、言葉の違いで苦労するものの
不器用だけどまっすぐな愛情をくれる人で、
彼が私の運命の人なのかもしれない。腹を括ってみよう」と思い
仕事と収入を得ても彼と別れない決意をした翌日に
何と三件もの仕事が同時に降ってきました。

一つ目は日本総領事館での在外選挙の短期バイト、
二つ目は清掃員の仕事、
三つ目は倉庫での梱包作業の仕事でした。

 

結局、倉庫での仕事を選び、
そこでは気のいい同僚に恵まれ毎日楽しく働くことができました。

収入は高くはなかったですが
彼に養ってもらう必要がなくなり、
自活でき貯金もできるようになりました。

【元箱入り娘の叩き上げの原動力とは?】

 

私は不器用で要領が悪いですが、
失敗から学べるという強みがあります。

貧乏だった期間では、
そもそもお金がなぜ必要なのかということを考え、
お金との付き合い方を学び、その学びを徹底的に実践しました。

問題や事象に真摯に向き合って本質を掴み、
他の問題に応用するというのは
私が大学院で得た知的技術です。

 

この知的技術こそが私をして原発事故後の日本政府を疑わせ、
放射性物質の危険性にいち早く気づかせてくれました。

知的技術を駆使して出した自分の結論を信頼できたからこそ、
親の葬式以外は日本の土をもう踏まないのだと腹を括れて
最初は知り合いすらいなかった外国で泥臭く踏ん張れました。

最初は日本食レストランでの仕事しかできなかった私ですが、
たくさんの失敗をして学んでいった結果、
時間はかかりましたが渡豪一年後にはローカルの仕事ができ、
ニュージーランドに移ってからはバリスタの仕事をやり、
日本語教師の仕事をやり、
そのツテで今では日系企業で秘書をしています。

仕事探しで度々苦労して「手に職さえあれば」と
数えきれないほど悔やんだ反面、
知的技術は咀嚼され私の血肉になっていて
それこそが私の「手に職」以上のスキルであり、
あるいはスキル以上のものなのだと今では考えています。