アルコール依存症の勉強にお勧めできる本の読書メモ

スポンサーリンク

 

前の記事の続きの、松本俊彦『薬物依存症 【シリーズ】ケアを考える』(ちくま書房、2018年)の読書メモです。

アルコールは薬物の一種ですし、
薬物依存症でもアルコール依存症でも根は同じ
なので
読んでいて非常に勉強になる本でした。

薬物依存症 (ちくま新書)

新品価格
¥1,058から
(2020/1/28 12:03時点)

この記事では、自助グループについての部分から引用を始めます。

前の記事と同じく、太字の部分は私が重要だと思った箇所で
原文には太字の部分はありません。

また、電子書籍版を購入したためページ数の表示がなく、
ページ数の記載はありません。

 

「依存症からの回復は自助グループ抜きで語ることはできません。というのも、依存症がれっきとした『病気』であり、しかもそれが回復可能な病気であることを社会に知らしめたのは、意外にも医師ではなく、依存症の当事者が相互に支援活動する団体だったからです。その動きは、一九三〇年代の米国において、まずはアルコールという最も多くの人々に使用されている薬物に関して起こりました。
 このことを説明するには、当時の時代背景を説明しておく必要があります。
 米国では、一八四〇年以降、アルコール酩酊による生産性の低下や健康被害、犯罪が社会問題化し、キリスト教教会を中心にして禁酒運動が勃興しました。やがてそれが各地に飛び火し、全国的な市民運動へと発展しました。そしてよく知られているように、その運動は最終的に一九二〇年の禁酒法に結実したわけです。この法律は、アルコール飲料の製造と販売を犯罪として禁じたわけです。
 しかし……禁酒法制定後、国民のアルコール問題は改善しませんでした。それどころか、……アルコールによる健康被害や社会問題は深刻化してしまったのです。
 最終的に、禁酒法は一九三三年に廃止されましたが、この大規模な社会実験は、皮肉にも人々の盲を啓き……ました。それは、アルコール問題は、その使用を犯罪として禁じることでは解決しない、という厳然たる事実でした。そして、自身に多くのデメリットをもたらすことを知りながらも、くりかえしアルコールを摂取して酩酊しないではいられない、という状態は、もはや道徳心や倫理観では説明のつかない事態、すなわち、それを一種の病気と捉え、刑罰ではなく、治療の対象とした方がよいのではないか、という問題意識を生み出したのです。
 しかし問題がありました。……すでに医療はアルコール依存症の治療に関しては、完全に『白旗を揚げて』いたことです。ですから、アルコール依存症を抱えた本人や家族が病院を訪れても断られるばかり、彼らに治療を提供してくれる場はどこにもありませんでした。
 このような状況を背景としながら、禁酒法廃止から二年後の一九三五年、偶然にも二人のアルコール依存症者が出会い、アルコホリクス・アノニマス……という自助グループが誕生しました。このグループが、依存症治療の大きな転回点を作り出したのです。……
 最初の課題は、自分がアルコールや薬物に対して『無力』であることを認めることです。これには、これまでひとりで意地になり、ひたすら根性だけでやめようとして、誰にも助けを求めないできたことをやめる、という意味があります。そして、まずは『薬物を使わないこと』よりも、『ミーティングに参加し続けること』に目標を変更するのです。
 依存症という、この『やめられない、とまらない』の状態から回復するには、絶対に必要な条件があります。それは、世界中で一箇所だけでいいから、安心して『クスリを使いたい』『クスリを使ってしまった』『クスリをやめられない』といえる場所、正直にそういっても誰も悲しげな顔をしない場所、誰も不機嫌にならない場所、決して自分に不利益が生じない安全な場所を持っていることです。

 しかし残念ながら、一般の社会のなかにはそのような場所はなかなかありません。たとえば、散々自分の薬物問題で苦しめてきた家族や恋人の前で、『クスリをやりたい』などといえば、彼らを失望させるだけですし、職場の同僚の前でいえば、社会的な信頼が損なわれてしまう危険があります。
 そうなると、依存症を抱える人のそうした正直な気持ちを理解し、共感してくれる人というのは、薬物経験者しかいません。しかしだからといって、いま現在、薬物を使っている人の前で告白すれば『なら一緒にクスリをやろうぜ』となってしまいます。
 そこで、自助グループが必要なのです。ミーティングに参加するメンバーはみな、かつて薬物を使っていて、しかし、いまはやめ続けている人、あるいは、やめようとして自信も苦しんでいる人たちです。だから、その気持ちに共感し、励ましてくれるでしょう。
 しかも、自助グループは匿名の場です。……つまり、そこは非日常の空間であり、秘密が守られ、現実の生活では利害関係のない集まりなのです。それが正直な告白をより容易にします。そして、告白する際には『薬物依存症者の××です』と自己紹介すると、仲間がいっせいに声をそろえて『××』と名前を復唱してくれます。これが発言者に、『自分はひとりではない』『ここは自分がいてもよい場所、居場所なのだ』という感覚を与えます。
 この感覚は回復のプロセスにおいてとても大切なものです。薬物依存症者の多くは、『薬物を使いたい気持ち』や『薬物を使ってしまっていること』を周囲にひた隠しにし、その秘密ゆえに誰と一緒にいても、『その人を裏切っている』『隠しごとがある』という罪悪感から心を閉ざし、孤独感に苛まれています。そうした感情がますます薬物の欲求を刺激し、人を、『反省すればするほどとまらない』という悪循環に陥らせます。自助グループはそうした悪循環から救い出してくれるのです。
 ちなみに、『仲間がいる』『自分の居場所がある』という感覚は、多くの薬物依存症者が人生で初めて薬物に手を出すきっかけとなったものでもあります。……薬物がもたらす最初の報酬効果は、中枢神経作用薬がもたらす快感ではなく、こうした『つながり』や『居場所』という社会的なものなのです。」

 

依存症という病気は、別名『忘れる病気』ともいわれています。
 ……最近味わった苦い失敗の記憶はすぐに『喉もとを過ぎて』しまい、いつまでも鮮明に覚えているのは、アルコールや薬物を使い始めた時期の、はるか昔の楽しい記憶ばかりとなります。ですから、依存症の人たちは、しばらくアルコールや薬物をやめていると、『その気になればいつでもやめる力があるとわかったから、もうしばらく使うことにしよう』とか、『今度は、失敗しないように上手に使うことができるだろう』などという気持ちになり、自分が立てた誓いを簡単に忘れてしまうのです。
 ところが、自助グループのミーティングに参加し続けていると、当然、はじめてミーティング会場に足を運んでくる依存症の人がいるわけです。まだ、アルコールや薬物が完全に切れておらず、呂律が回らず、体調の悪さを抱えながらも、自分なりに思うところがあって勇気を出して緊張した面持ちでやってきた、新しい仲間です。
 自助グループで一番大切にされるのは、このような、初めてミーティングにやってきた新しい仲間なのです。その仲間の姿は、重大な決意をもってその会場を訪れたかつての自分の姿と重なり、いまやすっかり喉元を過ぎてしまった記憶--最後にアルコールや薬物を使ったときの苦々しい記憶を蘇らせ、初心を思い出させてくれます。つまり、ミーティングで過去の自分と出会い直すことができるわけです。
 それだけではありません。ミーティングの場では、未来の自分のイメージとも出会うことができます。依存症の人がなかなか薬物を手放せないのは、本人たちにとってそれが自分の重要な一部分となってしまっているからです。長年、薬物とともに生きることで、楽しいことも悲しいこともそれらとともにあり、それらがあったおかげで、仕事で成功をおさめたり、苦境を乗り切ったり、すばらしい出会いを経験したりした記憶もあるはずです。その意味では、依存症者にとっては薬物はあたかも自分の『親友』『盟友』のようなものなのです。……
 要するに、薬物依存症者にとって、薬物を手放すことは一種の喪失体験--長年連れ添った伴侶との別離にも似ています--でもあるのです。それだけに、薬物依存症者のなかには、薬物を手放した自分には何も残らないのではないか、あるいは、自分が抜け殻のようになり、この先、ずっと灰色の無味乾燥な人生に耐えることを余儀なくされるのではないか、という不安を感じる人が少なくないのだと思います。そして、そのような不安はしばしば、薬物を手放して生き方を変える、という決断を躊躇させる原因となっています。
 ところが、自助グループに行けば、何とか苦しい日々を乗り越えて一年間やめ続けた人、あるいは三年やめ続けて気持ちにゆとりが出てきた人、さらには一〇年とか二〇年やめ続け、薬物がない生活があたりまえになっている人とも出会うことができます。そこには、近い未来の自分の姿や、遠い未来の自分の姿があります。決して抜け殻になっておらず、苦労しながらも自分らしい人生を楽しみながら、年単位でやめ続けることに成功している姿です。そのような未来のイメージは、依存症の人たちに希望を与え、回復への意欲を刺激してくれます。」

 

「依存症からの回復プロセスは、大きく『脳の酔い』を覚ますプロセス『心の酔い』を覚ますプロセスとに分けることができます。
 『脳の酔い』とは脳が薬物の影響を受けた状態のことを指します。たとえば、ハイになって気が大きくなっていたり、意識が朦朧として頭が回らなかったりする状態がそうです。そして、『脳の酔い』を覚ますのは実に簡単です。とにかく薬物を使うのをやめればよいわけですから。……
 問題となるのは、『心の酔い』を覚ますプロセスなのです。こちらは時間がかかりますし、容易ではありません。長いあいだ、『気分を変える』物質に酔った状態で生きるのが習慣化していると、自分でも気づかないうちに、物の考え方や感じ方に独特の変化が生じています。その変化をわかりやすい言葉で表現するのはとてもむずかしいですが、思い切って単純化していえば、『自己中心的、ひとりよがり、あるいは、周りが見えない考え方、感じ方』といったところになるでしょうか。
 実は、この『心の酔い』に近い状態は、私たちもアルコールに酩酊しているときに一時的に経験しています。たとえば、アルコールを飲むと気が大きくなって、まわりの空気も読まずにはしゃいでしまったり、ふだんはあまりしない自慢話が多くなったりします。また、嫌な気分を紛らわすためにアルコールを飲むと、大抵は不機嫌な酒飲みになって、自分のことを棚上げして上司や同僚のこき下ろしを始めます。そのとき私たちは、あたかも『世の中で一番優れているのは自分』という傲慢な考え、あるいは、『世の中で一番苦労しているのは自分』といわんばかりの自己憐憫で頭がいっぱいになっています。
 さらに、酔いの影響下では、物の考え方も子どもじみてきて、まわりが自分を相手にしなかったり、かまってくれなかったりすると、無性に腹が立つ状態になることもあります。たとえば、酔っぱらった状態でカラオケに行ったときに、自分が歌っているのに誰も手拍子を叩いてくれなかったり、聞いてくれていなかったりすると、内心面白くない気分になったことはないでしょうか。そのくせ自分が他の人の歌を聴く側に回ると、ろくに人の歌も聞かずに、『次は何を歌おうか』と曲目リストを一心不乱にめくっていたことはないでしょうか。実に自分勝手、自己中心的な態度だと思いませんか。
 こうした物の考え方、感じ方が、酩酊時だけでなく、しらふのときにも持続した状態が『心の酔い』なのです。
 依存症の人のなかには、日常的に薬物の酔いのなかで生活するうちに、知らず知らずのうちに、こうした酔ったとき独特の物の考え方、感じ方が心の奥深くに根を下ろしている人が少なくありません。そしてそのせいで、いつも周囲と自分を比較しては怒りと嫉妬に悶え、周囲からの評価ばかり気にして、自信過剰(傲慢さ)と自信喪失(自己憐憫)の両極を激しく揺れ動いています。これが『心の酔い』の状態なのです。この状態のままでいると、周囲の人間を、ともすれば『敵/味方』『あちら側/こちら側』のように敵対的図式で捉えがちになり、周囲との衝突や軋轢を生じやすく、怒りや嫉妬の感情に圧倒されやすくなります。これらはいずれも薬物欲求を刺激するものです。
 自助グループにはこのような『心の酔い』からの回復を促す力があります。…… 自助グループに長く参加し続けるうちに、『話す』と『聞く』とのあいだで力点の変化が生じることは、よく指摘されています。自助グループに参加してまもない人は、自分が発言する順番が来たら『何を話そうか』と、ともすれば『話す』ことばかりに意識が向きがちですが、実は、まず注力すべきなのは、他の参加者の話を『聞く』ことです。最初のうちは、依存症の特徴ともいえる『否認』の影響もあり、他の参加者がする体験談を聞いても『自分と違うところ』を探そうと躍起になる傾向があります。『俺はそこまでひどい状態にならなかった』『俺はそんなみっともないことはしない』といった具合です。
 しかし、それでもミーティングに参加することを続けていると、次第に『自分と同じところ』に意識が向くようになり、たとえば『状況は少し違うけど、自分もそんな風に考えていた』などと感じるようになります。その段階になると、ミーティング参加者の言葉は、自分の姿を映し出す鏡として機能するようになり、それまで気づかなかった、自身を客観視し、自分が抱える『心の酔い』の状態が理解できるようになります」

 

「自助グループで回復した人は『スーパー・エリート』
 このように自助グループには、薬物依存症からの回復を促進する数々の優れた効果があります。……
 しかしその一方で、厳しい現実があります。……
 前に私は、『継続的にNAに参加している人の大半が、年単位の断薬を維持している』といいましたが、そのすばらしい治療成績は、あくまでもNAの雰囲気や目標が『自分に合う』と感じ、継続的に参加した人に関するものでしかありません。そして残念なことに、すべての薬物依存症者がNAを気に入るわけではないのです。
 その意味では、自助グループによって回復した薬物依存症者は、薬物依存症者のなかでも『エリート中のエリート』といってよいでしょう。」

 

 「患者が自助グループへの参加を躊躇する理由はいくつかあります。患者の側が『ヤクザ者のヤク中が集まっている恐ろしい場所』とか、『ヤク中同士が傷をなめあって、結局、一緒にクスリを使っている場所』といった、事実とは異なる、非常に歪んだ先入観を抱いていることもありますし、『自分はそこまで深刻な依存症ではない』と問題を否認したりして、参加を躊躇している場合もあります。
 ただ、案外多い理由は、漠然と未知の場所に一人で訪れることの不安から二の足を踏んでいる、というものだと思います。これはある程度は理解できる現象です。人は誰しも知っている人がいない未知の場所に一人で行くのは不安なものです。……
 しかし他方で、本人なりに明瞭な理由を持って参加を拒んでいる場合もあります。たとえば、『何かの宗教みたいで嫌だ』という患者がいます。確かに、AAやNAといった12ステッププログラムでは、くりかえし『ハイヤーパワー』(超越的な力、神)という言葉が出てきます。これは決して特定の宗教における『神』を意味するものではありませんが、一部の患者は、そういった宗教的な雰囲気に抵抗感を示します。」

 

 

「かつて私たち依存症にかかわる援助者は、依存症からの回復には自助グループへの参加は必要不可欠なものと考えていました。だからこそ、患者が自助グループに参加したがらなかったり、12ステッププログラムの考え方を否定したりした場合には、その患者がまだ自身の依存に対する否認が強いと判断し、治療意欲を疑いました。ときには、自助グループに行く・行かないで揉めて治療関係が破綻し、治療が中断となってしまうこともありました。また、『自助グループへの参加を拒むのは、まだまだ薬物の問題に本気で困っていない証拠。もっと痛い目に遭って『底つき体験』をしないといけない』という考えから、極端な話、患者に対する援助を控えたり、冷淡な対応をしたりすることもありました。
 誤解しないでほしいのですが、それは一〇〇パーセントの善意にもとづく発想でした。なるほど『厳しい愛』……ではありますが、『愛』は『愛』なのです。中途半端態な援助は、薬物依存症者を自助グループにつながないまま、『単にクスリがとまっただけの状態』で落ち着かせてしまい、当事者から真の意味での回復のチャンスを奪ってしまう--そう私たちは考えていたわけです。
 しかし、いまになって振り返ると……このような対応のせいで、治療にアクセスできないまま逮捕されたり、命を落としたりした薬物依存症患者もいたのではないかと思うと、忸怩たる思いに駆られます。
 いまではこう考え直しています。曰く、『自助グループは依存症支援に役立つ重要な社会資源の一つである。もしも患者が自助グループを気に入ったならば、その患者はとてもラッキーだ。なぜなら、回復に関して大きなアドバンテージを手に入れたことになるから。しかし、もしも気に入らない、合わないと思ったからといって、その患者が回復できないわけではない。回復のための選択肢は他にもある』と。」

 

依存症の治療において、『欲求に負けない強い自分を作る』という発想はとても危険です。
 そもそも、アルコールであれ薬物であれ、依存症患者は『強さ』に憧れています。少なくない依存症患者が、心の傷つきや落ち込みを隠し、誰にも愚痴をこぼさずに踏ん張り、外見上の『強さ』を維持するために、いいかえれば、自分の心や感情をコントロールするために、アルコールや薬物を使ってきました。しかし、ふと気づくと、逆に自分がアルコールや薬物にコントロールされてしまっている--それが依存症という事態です。しかし、彼らはなかなかその事実を受け入れられずに、アルコールや薬物を何とかして自分の意志のコントロール下に置き、『強い自分』になろうと試みています。
 こうした動きに拍車をかけるのが、彼らの身近にいる家族や恋人、友人、同僚といった人たちです。彼らは、アルコールや薬物で何度となく失敗をくりかえしている本人を叱責し、『しっかりしろ』『もっと意志を強く持て』『強い性格になれ』などと激励するわけです。それがますます本人の『強さ』への憧憬を加速させます……。
 だからこそ、アルコール依存症患者はわざわざ飲み会に出かけ、『今日は最初から最後までウーロン茶ですごす』などと息巻き、自分の強さを試そうとするのです。しかしその結果、ウーロン茶は途中でいつしかウーロン・ハイに変わってしまって、友人たちに支えられ、泥酔状態で帰宅するはめになります。……
 ……私たちは、プログラム中の様々な機会を捉えて、『回復に強さはいらない。弱さは決して恥ずかしいことではない。自分の弱い点を熟知し、危険な状況をうまく避け、弱さを補う賢さにこそ価値がある』と伝えています。これを短い標語にすると……『強くなるより賢くなれ』

 

 「脳の報酬系のなかである薬物に対する精神依存が成立すると、今度は、薬物使用を思い起こさせるものや人、状況に遭遇したりするだけで、薬物の欲求が高まったり、まるで薬物を使ったときのような身体の変化(頻脈、血圧上昇、発汗、腸の蠕動亢進、便意)を生じたりします。
 このような変化を引き起こす刺激のことを『トリガー』(引き金)といいます。トリガーには自分の周囲にある『外的トリガー』と、感情や体調といった自分の内側にある『内的トリガー』の二種類があります。
 たとえば、売人やクスリ仲間といった『人』と街中でたまたま遭遇したとき、あるいは、かつて覚せい剤を使っていた繁華街やクラブといった『場所』に行ったとき、週末の夜や給料日、家族のいない一人の日、多忙な仕事が一段落ついてできた暇な時間といった『状況』によって、薬物の欲求が刺激されることがあります。……
 それから、内的トリガーとしては、怒りや恥の感情、罪悪感、あるいは、ワクワクした楽しい気分があります。多くの患者にとって、怒りや恥の感情のようなネガティブな感情の内的トリガーを同定するのは、かなり難易度の高いことです。というのも、進行した薬物依存症の人は、こうしたネガティブな感情を意識の中で自覚する前に、その予兆の段階で、薬物を使用し、いわば『心に蓋』をしてしまっているからです。……
 特にそのように『蓋』をされる感情としては、怒りに注意する必要があります。その怒りの対象が、自分が世話になっている人、散々迷惑をかけてきた人(たとえば親や配偶者)の場合には、怒りを抱くこと自体が『いけないこと』として罪悪感を刺激しますので、厳重に『蓋』をされているように思います。
 その意味では、あらかじめ『怒りの感情には注意』と心に留めておくのも悪くない方法でしょう。昔からよく知られているアルコール・薬物依存症の人の内的トリガーとしては、『H.A.L.T』……があります。これは、『Hungry空腹』『Angry怒り』『Lonely孤独』『Tired疲労』という、アルコール・薬物の欲求が高まる状態を意味し、昔から自助グループでは、これらの状態には慎重に対処するようにいわれてきました……。この『H.A.L.T』においても、特に『怒り』は断薬の維持を脅かす感情として重視されています。……
 なかには、複数のトリガーの組み合わせが渇望を刺激する場合もあります。たとえば、単に『給料日の夜』(外的トリガー)だけならば、薬物を購入しようという気持ちにならないのに、これに『孤独感』や『疲労感』(内的トリガー)が組み合わさると、ほぼ確実に薬物を使ってしまう、というパターンはほとんどの患者で見られます。」

 

 「トリガーに遭遇したときに大切なのは、すぐに気持ちをそこからそらすことです。たとえば、こういうケースがあります。
 --ある日、たまたま昔のクスリ仲間から電話があり、『いいネタ(薬物)がある』といわれた。そのときには『いらない』といってすぐに電話を切ったが、その後、もったいないことをしたような気持ちをずっと引きずり、『もう昔の自分には戻りたくない』『でも、一回だけなら大丈夫ではないか』と葛藤した末、翌日に自分からその仲間に電話をかけて、自分から薬物を求めてしまった……。
 クスリ仲間からの電話という外的トリガーに遭遇した時には、まずは深呼吸をしたり、手首にはめた輪ゴムを弾いたりして、我に返ることです。そのうえで、明日の予定を確認したり、裏切りたくない大切な人の写真を眺めたりします。そうすれば、その危険な状況から気持ちをそらすことができる可能性があります。
 一方、そうした対処をとらずに、頭のなかであれこれ思い悩むという反応をするのは、非常に危険です。刺激された欲求はまるで、雪の坂道を転げ落ちる雪玉のように、転がるたびにどんどん大きくなってしまいます。同時に、雪玉の転がる速度も増してしまい、自分の意志ではどうにも手に負えない、巨大な欲求になってしまうわけです。
 同様の葛藤は、実は、依存症ではない一般の人たちもよく経験しています。たとえばみなさんの多くは、夕食をきちんと食べたにもかかわらず、深夜に不意にインスタントラーメンを食べたくなってしまった、という経験があるはずです。そんなとき頭の中で葛藤するものです。悪魔的なもう一人の自分が『今日の夕食少なかったよね』とか、『明日の朝食抜けば平気じゃない』とささやくわけです。
 そんな風に葛藤し、あれこれ悩んでいると、最終的には、今夜ラーメンを食べてよい理由を探し出し、ラーメンを食べてしまうでしょう。それよりも、ラーメンが頭に思い浮かんだら、考えるのを一旦停止し、すぐさま洗面所にいって丁寧に歯を磨いた方が賢いでしょう。そうすれば、その後で新たな何かを食べるのがもったいなくなります。そのタイミングでベッドに潜り込んでとにかく寝てしまえば、少なくともその夜はラーメンを食べずにすむ可能性が高くなります。
 断薬の初期には、このような工夫を試行錯誤しながら、『今日一日だけ薬物を使わない』という日をつみかさねていくことが大切です。……トリガーに対処するための武器と知恵を習得し、『賢くなる』ことが、断薬を維持するうえで大切です。」
タイトルとURLをコピーしました