アルコール依存症の勉強にお勧めの本は?

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私はパートナーがアルコール依存症なので
依存症について学ぶための本をいくつか読んでいます。

松本俊彦『薬物依存症 【シリーズ】ケアを考える』(ちくま書房、2018年)
を読んでみたら、これがとても良かったので紹介します。

薬物依存症だけについての本かと思って
おすすめの書籍リストに出てきても買わないでいたのですが、
アルコールも薬物の一種らしいので購入して読んでみました。

薬物依存症 (ちくま新書)

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まるで院生時代のように読書メモを取りながら再読していて、
ここでも誰かの参考になるかもしれないのでメモをシェアします。

私が読んだのは電子版なのでページ表示がありません。

また、重要だと思う箇所は私が太字にしました。

(全てのメモを一つの記事にすると文字に酔いそうになるので、
二つに分けて投稿します)

 

「薬物に手を出した人のすべてが依存症になるわけではないのだとしたら、一体どのような人が依存症になりやすいのでしょうか。
 意外に思うかもしれませんが、人が薬物をくりかえし使うようになるのは、必ずしも薬物によってもたらされる快感のせいとは限りません。アルコール(……これも立派な薬物です)がそのよい例です。飲酒習慣を持つ人のなかで、『自分は、最初からアルコール飲料の味に強烈な快感を覚えた』という人はめずらしい部類に入ります。むしろ多くは、『飲み会の雰囲気が好き』『しらふのときよりもオープンな交流ができた気がする』『大人の仲間入りをした気がした』といった、人との『つながり』ができる感覚に好ましさを感じ、そうした親密な雰囲気の中で飲酒経験をくりかえすなかで、時間をかけてアルコールの『おいしさ』に目覚め、あるいは学んでいくのではないでしょうか。
 覚せい剤のような違法薬物でも、本質的にはそれと同じです。つまり、人が薬物に手を出すのもまた、多くの場合、『つながり』得るためなのです。実際、薬物を使うことによってある集団から仲間として見なされたり、大切な人との絆が深まったり、あるいは、薬物の効果によって一時的に緊張感や不安感がやわらぎ、ずっと悩んでいた劣等感が解消された気になって、苦手な人づきあいが可能となったりします。その結果、その人は『つながり』を手に入れるわけです。
 思うに、薬物使用が本人にもたらす最初の報酬とは、快感のような薬理学的効果ではなく、関係性という社会的効果です。そして、忘れてはならないのは、違法な薬物を使ってでも人とつながりたいという人は、それほどまで強く、『自分にはどこにも居場所がない』『誰からも必要とされていない』という痛みを伴う感覚に苛まれ、あるいは、人との『つながり』から孤立している可能性がある、ということです。

 とはいえ、薬物には依存性ー-人の脳と心を『ハイジャック』し、その人の物の考え方や感じ方を支配する性質--があるのもまた事実です。そして、心に痛みを抱え、孤立している人ほど、薬物が持つ依存性に対して脆弱です。そのような人ほど、あっという間に薬物によって脳と心を『ハイジャック』され、気づくと、仲間に背を向け、大切な人を裏切ってでも薬物を使うようになってしまいます。もはや薬物は人とつながるためのツールではなくなり、むしろ『つながり』を破壊して人を遠ざけ、世間の騒々しさを遮蔽して、自分の殻に閉じこもるためのツールへと変化していきます。
 これが、人が薬物依存症に罹患していくプロセスなのです。
 私はかねてより、薬物依存症とは『孤立の病』であると考えてきました。つまり、孤立している人が『つながり』を求めた結果、かえって孤立を深めてしまうという、実に皮肉な病気です。……こういいかえてもよいでしょう--曰く、『痛みは人を孤立させ、孤立は薬物を吸い寄せる、そして、薬物はその人をますます孤立させるのだ』と。
 ここまでいえば、先ほどの問いかけ--『同じように薬物に手を染めながらも、なぜ一部の人だけが薬物依存症に罹患するのか』--の答えは、おのずと明らかではないでしょうか。それは、その人が痛みを抱え、孤立しているからです。」

 

「『薬物依存症になる人間は仕事なんてしない、無責任な怠け者なのではないか』という疑問です。
 しかし、それは必ずしも正しくありません。むしろ週末や休日の気晴らしや快楽を求めて使っている状態から、平日のルーチンな仕事をこなすために薬物を用いる状態になった人の方が依存症としてははるかに重症かもしれません。さらにいえば、意外にも、薬物依存症者のなかにはワーカホリック気味の人が多いように感じます。
 なぜでしょうか。考えられる理由は三つあります。第一に、薬物の購入資金を得るために仕事の収入が必要です。第二に、本人自身、『仕事がきちんとできているうちは依存症ではない』という思い込みがあり、自分が依存症であることを否定するためにも、ほとんど『命がけ』で仕事にしがみつく傾向があります。そして最後に、仕事こそが自身の承認欲求を満たすものだからです。
 この最後の点はとても重要です。……依存症者は、たとえ尊大そうに見えてもその内実は自己評価の低い人が少なくなく、それだけに人から承認されることに飢えています。一般に、仕事というものは、成人した人間が人から承認されるための、最も手っ取り早い方法です。そして、依存症の人たちのなかには、仕事によって人生で初めて承認されたという体験をしてる人がいます。……
 ……そして実際、仕事の効率が上がっていることもめずらしくなく、職場の上司や同僚は……『おまえ、最近頑張っているぞ、偉いな』などと褒めています。こうした称賛は、本人に対しては皮肉にも、『薬物を使いながらでも仕事を頑張るのはよいことだ』というメッセージとして伝わっていることでしょう。だからこそ、彼らは自分を周囲に認めてもらうために薬物を使いながら仕事をし、それによって得た報酬の大半を薬物の購入に注ぎ込むわけです。」

 

「依存症になると、当初は、パフォーマンスを高めるためだった薬物使用が、いつしか『薬物がないと自分を保てない、使わないとヤバい』という危機感へと変化し、本来の自分を維持するためには薬物を使い続けることが必要な状況に追い込まれます。
 とはいえ、薬物を使い続けるのは容易なことではありません。家族や職場にバレないようにしなければなりませんし、薬物の購入資金を手に入れなければなりません。それから、本人の不審な言動に疑いの念を抱き始めている周囲の目も、ごまかし続けなければなりません。
 こうした事情から、薬物に対する精神依存が成立し、薬物依存症と診断できる状態になった人は、本当によく嘘をつくようになりますし、言葉巧みな人、話し上手な人になっていきます。……そうしないと、隠れて薬物を使い続けたり、薬物の購入資金を手にしたりすることができないので、『自分が自分であり続ける』ために、全力でその技術を学び、能力を向上させるのかもしれません。……
 しかし、こうして周囲にさんざん嘘をつきながらも、最も騙している相手は誰なのかといえば……自分自身です。内心は、『俺は完全にクスリにはまっているかも……』と不安を抱きながらも、『いや、俺は依存症ではない』『百歩譲って依存症だとしてもかなり軽症だ』『その時期が来たら自然とやめるだろう』『年が明けたらやめる』など、自分を安心させるためのいいわけをするわけです。……
 要するに、自分に対する嘘が多くなるわけです。この段階では、薬物を使用することの快感はほとんどなく、むしろ使わない状態のときに自分を襲う苦痛や、目を背けていた現実と向き合う不安の方が強くなっています
 やがて周囲もさすがに本人の嘘に気がつき、ようやく事態の深刻さを認識するでしょう。そして、口うるさくして薬物をやめるようにいうようになります。説得したり、説教したり、叱責したり、懇願したり、なだめたりします。家族が、依存症の専門治療機関に受診するように提案することもあるでしょう。しかし、そのたびに、『俺は依存症ではない。治療なんて必要ない』と抵抗します。……
 このような、頑なに事態を過小視、矮小化する態度こそが、依存症に罹患した人特有の『否認』といわれるものです。家族や周囲の人たちは、依存症の状態にあることを頑なに否定する本人を説得し、あるいは論破して、この否認を打ち砕こうとしますが、やっかいなことにそのようにすればするほど、本人の否認はいっそう強固になってしまうのです。」

 

 「人からの承認こそ最大の報酬
 一〇代から違法薬物に手を出すようになった薬物依存症患者のなかには、ときどきこんなことをいう人がいます。『それまで出会ったなかで一番優しくて、自分の話を聞いてくれたのは、薬物を使っている先輩だった。もちろん、薬物はヤバいかなと思ったけど、その先輩と仲良くなりたい、認められたいという気持ちの方が強かった』
 この患者にとっては、薬物を教えてくれた先輩こそが、それまでの人生で初めて自分の存在を承認してくれた人物であったわけです。もしかすると、その承認は彼にとって人生最大級にドーパミン活性を高め、報酬系を興奮させた可能性があります。そして、その感覚は、その後に使った薬物によってさらに強烈に刻印付けされたのではないでしょうか。
 このエピソードは私達に依存症に関して重要なことを教えてくれます。すなわち、人間の報酬系に最も必要な快感は『人からの承認』であり、これが不足していると、薬物の誘いや、薬物が引き起こす快感に対して脆弱になる可能性がある、ということです。
 もちろん、反論はあるでしょう。曰く、『いくら人からの承認に飢えているといったって、違法薬物に手を出すのは犯罪だ。道徳心が欠けているのではないか』と。
 しかし、人が道徳的にふるまい、コミュニティのルールを尊重するのは、コミュニティに対する信頼感があるからなのです。もしもそのコミュニティの人達--家族や学校の教師、友人など--から自分の存在を否定され、騙され、裏切られる体験を何度となく味あわされてきたとしたならば、そこに存在するルールに重みは感じなくなるものです。少なくとも、いつもダメ出しをしてコミュニティのルールを説教する大人より、自分に優しく接してくれて、親身に話に耳を傾けてくれる人との関係を優先するのは、ごくあたりまえのことではないでしょうか。
 そう考えれば、ひたすら『最初の一回に手を出さない』ことを訴え続けるだけしか能がない、現在の薬物防止教育の限界も、おのずから明らかといえるでしょう。」

 

「薬物依存症の人が最も薬物を再使用しやすいタイミングとは、刑務所を出所した直後である……。
 ……どれほど重症な薬物依存症の人でも絶対に薬物を使えない環境では不思議と諦めがつき、薬物に対する欲求を感じなくなります。そのような安全な環境に長期間いると、自分がかつて苦しんでいた薬物の欲求を忘れてしまい、治療プログラムに参加しても、いまひとつ切迫感がなく、身が入りません。そして、刑務所を出所する頃には、『もう完全に治った。目の前に覚せい剤のパケを差し出されても、決して動じることはないだろう』という気持ちになってしまうのです。
 ここで重要なのは、依存症とは「忘れる病気」であるということです。最後に薬物を使った時の『苦い記憶』はすぐに忘れ、薬物を使いはじめた当初の『楽しい記憶』ばかりがいつまでも残ります。アルコールで失敗し、『もう酒やめた』と誓った人が、その失敗の記憶がすぐに喉もとを過ぎて、なぜか三日後には飲酒を再開している、ということがよくありますが、それと同じです。」

 

「薬物が引き起こす健康被害に関する情報を依存症者に噛みくだいて伝えるのはどうでしょうか。……
 依存症専門家として自信を持って保証しますが、……依存症者の多くは『そういうケースもあるってことでしょ』などとうそぶき、『自分だけは絶対に大丈夫』と考えているものです。これも依存症特有の否認の一つなのだと思います。自分にとって不都合な情報は意識的に無視し、考えないようにするのです。……
 いずれにしても、このような健康被害の情報が効果的なのは、まだ薬物に手を出したことのない人、あるいは、薬物に手を出して日が浅い人だけであり、依存症の水準に達している人には、ほとんど効果は期待できません。」

 

医学の歴史をふりかえると、依存症との戦いはそれこそ惨敗に次ぐ惨敗の歴史でした。多くの医師が果敢にも依存症に対して戦いを挑み、そのほとんどが苦い敗北を喫してきたのです。そのような過去の敗北のパターンを、ごく単純化していくつか例示してみます。
 たとえばある医師は、患者を強制的に入院させ、薬物と物理的に隔離する治療を試みました。確かに入院中は薬物を使わずにすみますが、患者は退院すればすぐに薬物に手を出してしまいます。最初は数週間ですんだ入院は、薬物の再使用をくりかえすたびに長くなり、数カ月、あるいは年単位におよぶ期間へと長くなっていきます。こうなると、もはや治療というよりも懲役のような様相を呈してきます。
 別の医師は薬物療法を試みました。それは、薬物に対する欲求を何らかの治療薬によって抑えようという試みでした。しかし、皮肉なことに、今度はその治療薬の依存症になってしまうという二次被害を引き起こしてしまいました。なお、最近になって、海外では、ヘロインやアルコールといった中枢神経抑制薬の依存症については薬物欲求を軽減する治療薬が登場していますが、覚せい剤やコカインといった中枢神経興奮薬については、いまもって薬物欲求を減らす治療薬が存在しません。
 さらに別の医師は、精神分析療法のように、患者に対して長時間の個人面接をくりかえし、薬物使用の背景にある患者の深層心理や子ども時代のトラウマ体験を探っていくことを試みました。しかし、過去のつらい体験を思い出すことでかえって薬物に対する欲求が強まり、薬物使用がエスカレートしてしまうことが多々あったようです。
 こうした敗北を重ねるなかで、医療者達は依存症に対して完全な敗北を認めました。ただ、それはややいきすぎたものでした。というのも、『医療では治らない』と宣言しただけでなく、やや乱暴に単純化していうと、『依存症は病気ではない、性格や道徳心の問題だ』と、医療の対象から排除し、依存症治療から完全に手を引いてしまったからです。」
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